考えたこと2

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日本の学校教育
日本の学校は修得主義ではなく、履修主義になっている。

そうではないか、と思っていたが、やはりそうなっている。
今週号のニューズウィークのコラムに、冷泉彰彦という人が書いている。

http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2012/06/post-442.php

 「日本の場合は高校の単位というのは「授業時間」で決まっているのです。高校の学習指導要領においては、1コマ50分の授業を35回受けると1単位になります。多くの科目では、標準単位というのがあって2から4に設定されている他、卒業に必要な単位は最低で74だそうです。
 指導要領では、一応各科目の目標には達していることが要求されていますが、その定義はされていません。つまり、日本の高卒資格を得るには35掛ける74の2590時間の授業を受けなくてはならないのです。数年前に一部の私立高校などで世界史の授業の履修漏れが指摘され、慌てた学校側が臨時に授業をして対応していましたが、あれも要するに所定の時間数だけの授業をすれば良かったのです。」

逆に言うと、高校を卒業するには、2590時間の授業を受ければいい、ということだ。
小学校、中学校も、時間数は違えど同じ事だろう。
履修漏れがあったら、その時間数だけ授業を受ければOK。
休みが多く、卒業できないと思われる者には、補習授業を受けさせたらいい。
極端な話、その時間を居眠りしていてもかまわない。
要は授業に「出席」すればいいのだ。
だから、世界史の履修漏れが問題になった時でも、時間だけが問題だった。
何を習得したか、というのは問題になっていない。
だから、分数ができない大学生や、太陽が地球の回りを回っていると思っている人や、サウジアラビアがアフリカ大陸にある、というような人が出てくる。

アメリカ人も日本がどこにあるかわからない人ばかりだし、暗算もできないではないか、という反論をする人がいたが、アメリカと日本は違う。
ぼくらが教えられたのは、日本は資源がなく、海外と貿易して生きていくということだった。
だから、人の能力は大事だと先生は言っていた。

履修主義は大事だが、もっと大事なのはその教科で教えた内容がわかっているか、ということだろう。
その到達目標が、指導要領では定義されていない、ときた。

あまりにもいい加減だ。

高度情報化社会とか、グローバル化とか言っているが、こんな大事なことを手抜きしていいのか。
文科省が日本をダメにするぞ。

コラムはこう結ばれている。

 「もしかして、文科省は公立の小中高校の現状は「ポスト産業化のグローバルな社会」に適合する人材を育てるところでは「ない」と諦めているのでしょうか? 例えば文科省の初等中等教育局は「子どもたちに自ら学び自ら考える力や豊かな心、たくましさなどの『生きる力』をはぐくむ教育を目指しています。」などという意味不明のスローガンを今でも掲げているわけで、真剣に心配になります。」

その通りだ。



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