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2023.07.24 Monday
母の命日
今日母が亡くなった。
91歳。 先週の金曜日、日曜日と顔を見に行ったが、かろうじて金曜日は目を見て手を握る力があった。 昨日の日曜日は、もう意識も殆どなく、呼吸も苦しそうだった。 どれだけ持つのかと思っていたら、今日の月曜日にもう力尽きた。 昼過ぎに電話があって、早引きして行った。 8月の終わりで92歳だったが、そこまで生きられなかった。 苦しそうだった息も絶えて、休んでいるような死に顔だった。 長いことありがとうございました。 戦争を体験して、女学校に行くときに空襲の穴ぼこをよけて通ったと言っていた。 戦後になって、共学になって神戸高校の2回生。 ぼくの25年先輩だ。 高校を卒業後、洋裁学校に行き、結局勤めることなく商社マンだった父と結婚。 祖父が建ててくれた家に長いこと住んだ。 3人姉妹の真ん中。 不器用でメカ音痴だった父を尻目に、わりとメカに強かった。 何でも、取扱説明書を読んで使っていた。 パソコンも父よりも上手に使っていた。 連句の会の会報も、縦書きでワープロしていた。 うちの子どもたちの幼稚園のときは、ポケモンの柄の手さげなどを作ってもらっていた。 ぼくが小さい頃はよく毛糸を解くのを手伝った 毛糸玉を作って、それでまた編み物をしていた。 洋裁は一時家で教えていた。 型紙を作って、その通りに切って、縫合わすというようなことだったと思う。 竹の70センチくらいある定規を使っていた。 70歳でパーキンソンになったのが痛かった。 あれで、洋裁も編み物もできなくなった。 自分でもう実家には住めないと決断して、サービス付き高齢者向け住宅に移った。 実家に荷物を置いていて、時々取りに帰る生活。 まだいつかは実家に戻ろうと思っていたのかもしれない。 こけて、足の大腿骨頭骨折を両方ともやった。 特に2回目はコロナの真っ只中で、手術やリハビリの間もほとんど会えず、認知症が進んだ。 それ以外にも、何度か道でこけて起き上がれず、救急車のお世話になった。 ぼくも2,3度一緒に乗った。 ぼくは2014年に会社をやめて時間が出来て、その頃から月に何度かは実家に行き、サ高住に行き、最後のホームに行った。 それでも、行くと「この頃来ない」と言っていた。 あんなふうに、記憶をなくしていくのは、本人も辛かったのだと思う。 でも、ようやく楽になれた。 いつも施設から帰るときに、私も帰るわ、とよく言われた。 どこに帰るん?と聞くと考え込んでいたが…。 でも、やっと今日はホームを出て、旅路についた。 もうすぐ父のところに行ける。 本当に長いことありがとう。 |
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