考えたこと2

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マスク大国


未だに病院などの施設では「マスク着用」が義務付けられている。
でも諸外国では個人の判断に任され、ほぼマスクは不要という状態になっている。
それが当然だろうとぼくは思う。

マスクをすることの副作用についての記事https://agora-web.jp/archives/260329100118.htmlがあった。
長くなるが、引用すると

「まず指摘されるべきは、「安心感」が行動を変えるという現象である。マスクを着用していることで自らを安全だと認識し、本来であれば避けるべき場面での接触や会話を許容してしまう。いわゆるリスク補償の問題であり、安全対策が逆にリスク行動を誘発するという逆説がここにある。

さらに、マスクの扱いそのものも必ずしも衛生的とは言い難い。長時間の着用や、着脱時に手で頻繁に触れる行為、同じマスクを繰り返し使用する習慣などは、かえって感染リスクを高める可能性がある。対策が「形式化」することで、本来の衛生意識が後退するという現象も見逃せない。

また、社会的・心理的な副作用も無視できない。たとえば、聴覚障害者にとっては、口の動きが見えないことがコミュニケーションの大きな障壁となった。表情の多くが遮られることで、人間関係のニュアンスも伝わりにくくなり、社会的な分断を深めた側面がある。

加えて、顔の一部を常に隠す状態は、外見に対する過度な不安、いわゆる醜形恐怖の傾向を助長した可能性も指摘されている。

マスクによって「隠せる」ことが前提となり、むしろ外すことへの心理的抵抗が強まるという逆転現象である。人と人との接触機会の減少は恋愛・結婚といった関係形成にも影響を及ぼし、長期的には出生数の減少にも連なり得る。子供達の発達面からみても好ましいものとは言えないだろう。防犯の観点でも、顔を覆うことの常態化は個人識別を困難にするという問題をはらむ。

こうした多面的な副作用にもかかわらず、「見える対策」はほとんど検証されることなく維持された。その象徴が「マスク警察」や「自粛警察」と呼ばれる存在である。感染対策が倫理的義務として内面化され、従わない他者を糾弾する行動が正当化された。感染防止という目的が、いつの間にか「規範の遵守」を監視する行為へと転化していた。

対策の是非を冷静に検証する余地が失われ、「正しさ」そのものが過剰に消費されていく——いわば”正義中毒”とも呼ぶべき状態が広がったのである。」

今も諸外国のマスク状況などは報道されないし、完全にガラパゴス状態だ。
日本人は本当に非科学的になったと思う。

だいたい、ウィルスに対してあんなマスクが効果があると思っているのだろうか。
不織布マスクのフィルターの隙間は約5マイクロメートルで、ウィルスは0.1マイクロメートル。
50倍の大きさだから、ウィルスはスキマからいくらでも出入りできる。
そういう研究結果もたくさん報告されている。

ぼくはコロナの時でもずっとマスクはしなかったが、通勤電車で車両の全員がマスクをしているのを見て、諦めた。
同調圧力に負けたのだ。
きっと日本が第二次大戦に突っ込んだ時も、そういう圧力があったのだろう。
あの頃から、何も変わっていない。

病院でマスクを強要するのは、ここはちゃんとやってます、というプロバガンダだ。
それ以外には考えられない。

厚労省はマスク着用は個人の判断と言いつつ、医療機関には推奨している。
オカシイと思わないのだろうか。
病院に行くたびにマスクをしないといけないのは、ほんとに鬱陶しい。

病院が守っているのは、患者ではなく『自分たちは対策をしているというポーズ』だと思う。

日本の医学界は非科学的であることを、いつまで宣伝し続けるのだろうか。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:21 | comments(0) | trackbacks(0) |

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