考えたこと2

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大学教員の教育
大学の先生には教育課程はない。
大学教員資格というのもない。
唯一あるとすると、それは論文数になる。
それは、大学進学率が低かった時代の基準だが、今もそれを適用している。

大学進学率が低かった時代というのは、大学教員は研究が主であり、その研究を通じて自ら学んだことを深め、その背中を見せて学生を教育していた時代ということだ。
学生が勝手に学んでくれた時代、ともいえる。
同世代のごく一部しか大学に進学できなかった時代だからだ。

しかし、高等教育の大衆化が進んで18歳人口の半分が大学に行くようになった。
当然、大衆化した大学教員に求められる資質は変わってくる。
それは至極当然のことだ。
結果、大衆化した大学では研究よりも教育が求められるようになった。
基礎学力がなかったり、そもそも大学で何をしたらいいのかわからない学生が入ってくるからだ。
これは自己責任では片づけられない。
だから、研究だけでは十分ではない。教育も必要になったというのが実情。

その実情と相前後してFDという言葉も出てきた。
FDはフロッピーディスクではない。
Faculty Development、教育改善のこと。
下位の大学の人なら知っている業界用語だ。
基礎学力が不足している学生に授業をするのだから、今までのやり方ではだめだということ。
普通の人は、こんなことを大学でやってるのか…と驚くようなものが多い。

したがって、下位の大学の先生には教育の方法を教えないといけない、ということになる。
それが今までの経緯から必然的な結論。
しかし、大学の先生は学ぶのが苦手だ。
FDの事例を発表してもらったりして、研修会をやっても、教員は出席はするが自分の授業に取り入れようとはしない。
講師には「いいお話を聞かせていただいて、ありがとうございました」と言っても、その事例を取り入れて、こんなふうにしました、という話は聞いたことがない。
結局、旧態依然としたカリキュラムで、旧態依然とした教え方をしているのが事実。

アメリカでは、大学教員への教育は学部長の役割だという。
学生に対して、ちゃんと教育マインドを持って教えるということだ。
当然、そういうところも昇任させるうえでは評価され、場合によっては学部長から注意されたりする。
しかし、日本の大学ではそういうところは少ない。

強権を持ったワンマンの理事長や学長がいる大学くらいだろう。
そういう「学問の自由」のない環境でしか、そういう大なたは振るえない。

そんな大学を見てきて、今の「学問の自由」などという話を聞くと、バカバカしくなる。

実態はわからないだろうなあ。



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