考えたこと2

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AIは仕事を奪わない
「人工知能が変える仕事の未来」という本の紹介記事を読んだ。
この本は通説とは違って、「AIは人間の仕事を奪わない」という本だ。

本の目的は、AIに何ができて何ができないのか、という事をきちんと理解すること。
そもそも「知能」とはなにか、ということだ。
それを「経験したことのない、未知の事態に遭遇して、その場で問題解決のアイデアと具体的な手法を発明、考案し実践し、それを証明する能力」と定義する。
もちろん、ここまでできるAIはまだ出来ていない。

要素としては、いろんなものが出来ている。
画像データーから、そのものを理解したりする。
チェスや将棋、碁などのゲームもできる。
翻訳もすごく高いレベルでできるようになっている。
迷惑メールを勝手に見つけて振り分けてくれるたりする。
そういう要素はだいぶ出来てきた。

それらのAIを分類する要素を3つの軸で表している。
1つは「強いAIか、弱いAIか」、2つ目が「専用か、汎用か」そして3つ目が「知識・データーが少ないか、多いか」。
これらの軸で分類できるという。

「弱い」「専用」「データー少ない」例がルンバのような掃除ロボット。
「強い」「専用」「データーが多い」例が、クルマの自動運転システム。
今の所、「強い」「汎用」「データーが多い」という最強のシステムは作られていない。
これができたら、ターミネーターの世界になる(コンピューターが自律的に動くようになる)。

でも、著者はそういうものは作れないだろうという立場。
シンギュラリティの議論だ。

AIが進む時代には、人間は創造性や個性、文化、アートなどの感性をアピールしないといけない。
そういう意味で、文系学部、芸術系学部の軽視は間違った政策だという。

「遊び心、悪戯心、新しい美の追求を思う存分、のびのびできるように、教育の現場を変えていくことで、日本の勝機が増えるでしょう。ハードウェアがタダ同然に安くなり、機械学習エンジンを含む共通ソフトウェアも多くは商用フリーで出回る時代です。より上位のコンセプト創造、オリジナル・コンテンツの制作、その流通・享受の仕組みのところが、必然的に、大きな価値を生むようになります。」

「生産性向上で社会の富が増え、人間はより創造的な業務に集中できるでしょう。単純労働から解放されて、ベーシックインカムで「遊んで暮らせる」生活が訪れてもおかしくないのです。」

ということだ。

いろんなAI絡みの本が出ているが、このAIを分類する軸、というのはなかなか面白い。

ぼくは生きていないが、AIの未来は人類の未来だと思う。

どうなるのか、興味深い。




| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
古い価値観
こないだウーバーイーツのことを書いたが、こういう個人が主体になってやるビジネスの仕組みが日本ではなかなか根付かないのはなぜなのか。
ウーバー自体もそうだ。
「配車サービス」がウーバーの役割で、実際に動くのは個人。
車があって、時間があって、スマホとクレジットカードさえあれば誰でもできる。

日本では特に都市部でタクシー業界が反発している。
タクシーのサービスがあるからウーバーは要らないという理由だ。
それに国交省も乗ったカタチ。
役所の既得権もあるのだろう。
業界、役所も含めて、既得権益を守ろうとしている。

それを崩すと言ったのが、結果的には放たれなかったアベノミクスの第三の矢。
規制緩和というやつだ。
菅氏が新聞で「大幅な規制緩和」と書いていたが、それに期待する。
一番やらないといけないことが、できないというのが日本の政治。
行政や役所が強いことが災いしている。

ウーバーに関しては「白タク」禁止が根拠として使われた。
もちろん、白タク禁止の法律ができた時には、それなりの理由があった。
でもウーバーのような仕組みができたら、そういう法律は変えていかないといけない。
この役所が一旦作った法律は変えないというのが古い価値観。
役所は間違えない、という思い込みがあって、一旦出来たものを変えることには抵抗がある。
作った人の顔を立てる、というようなこともあるのだろう。

日本の役所は海外に比べると優秀だというのは本当かもしれないが、法律に付随する政令などで隠れた規制がたくさんある。
今回のコロナでも、法律上は指定感染症の2類相当ということになっているが、会議の席で厚労省の役人が1類にしよう、と言った議事録だけで格上げされている。
会議のときには妥当性があったのかもしれないが、諸外国の状況などをみていると、もうとっくに外していいレベル。
おかげで、無症状の人も入院しないといけない。
医療費の無駄遣いだろう。

そういうことは今でこそインターネットに議事録が上がって公開されるが、国民の代表である国会議員が決めたわけでもない法律に付随する政令で、全国民が迷惑している。
勤務先でも、学校でも、誰かがコロナになったらクラスターを追求されて、消毒、2週間の隔離などの処置がいる。
なぜエボラ出血熱と同じ扱いになるのか、常識の問題だ。

そういう価値観が、規制を増やし、社会の無駄を増やしている。
実際ウーバーの発達したアメリカでは、アプリで車を呼べて便利になったとのこと。
インターネットとスマホというインフラで社会は変わっていく。
その恩恵を受けられないのが今の日本。

菅さんが「大幅な規制緩和」というのなら、そういうところまで切り込んでほしい。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |