考えたこと2

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Kさんのこと
数年前、ふとした縁でKさんと知り合った。

きれいな大阪弁を話す、細くてやさしい人だ。
設計士で、苦労人。一度、少し離れたところにある、クラゲを見ながら酒を飲むというバーに連れて行ってくれた。
水槽の中には、無数のクラゲが漂っていて、幻想的な気分になれる。
そのお店を作るのにかかわった…と飲みながら話していた。

知り合ってから2年くらいたって、実は…と切り出したのを覚えている。
自分は胃ガンだったとのこと。

「そうだったんですか。それで、痩せているんですか?」
「いやいや、もともとですわ。」

Kさんにお願いしていた仕事もあったので、話しておこうという気になったとのこと。

もとは、大きな建築会社で働いていたが、すぐに独立し、大阪で仲間と仕事を始め、さらに、一人で神戸に事務所を開いた、という人だ。
一匹狼、というには優しすぎる人だった。

「コンピューターはやっぱり必要でしょうかね?」
「そら、今どき、コンピューターは要るでしょう。」

そんな話もした。
ちょうど会社でCAD(コンピューターを使った製図)にからんだ仕事をしていたので、僕がそのことを力説すると、若い人にそれを覚えさせたとのこと。

「ボクはやっぱり紙と鉛筆ですワ。」

夜遅く、紙に向かって、うなる。苦しい時間もあっただろう。無から有を生み出す仕事だから。

「来るときは、突然来るんですワ」

いいアイデアは苦しまないと、出てこない、と言う。
それが、本当の産みの苦しみなんだろうな、と思った。

3年ほど前に、仕事の事で、色々と話を聞いてもらった。

「思うようにやらはったら、エエのとちゃいますか…」

ちびちびと日本酒を飲みながら、ほとんど食べず、話していた。
ホントに酒好きだった。

去年、一度飲みに行こうという話になったが、仕事を併行して抱えており、大変なので落ちついたら…というメールが来た。
一度現場が始まると、1年単位で仕事が続く…そんな商売だ。
この建築関係の不景気に、よろしいなぁ、と言うと、貧乏暇無しという返事だった。
今までの苦労が報われる時が来たんだろう。

今年になってから、体調が良くないので、しばらく入院していた…とのメールがあり、治ったら行きましょう、という返事を書いた。
その時には、大したことはない、という事だった。

ついこないだ、ウチに来たのだが、僕は会えなかった。
家人によると、痩せて、しんどそうだったとのこと。

どうしたのかな…、と電話をかけても、出ない。
どうも、悪いらしいが、口止めされている…という事だった。

そして、9月28日にKさんは逝ってしまった。

見慣れたセーター姿の写真だった。
葬儀場には、Kさんの作品のスケッチや写真が飾られていた。

二度目のガンと闘って、負けたのだ。

作ったものは、人のもので、自分のものではない…とKさんは言っていた。
方丈記にあるように、日本人の住み処はこの世での仮の住まい…という諦観があったと思う。
いつまでも残るものではない、というような思いがあったような気がした。

それだからか、Kさんは、格好の良さだけではなく、使う人の身になって考える人だった。

僕といくつも違わない。
五十年ちょっとの人生だ。

「二十年早いですわ」

知り合いの電気屋さんが言っていた。

天がKさんの才能に嫉妬したのか…。

きっと、今ごろは、空の上から自分の作った建物を見て、「もうちょっと、ここ、こないしといたらよかったなあ」などと言っているに違いない。

さようなら。
いろいろ、お世話になりました。


| | 考えたこと | 01:16 | comments(2) | trackbacks(0) |
写真
最近、白髪も増えたし、自分の姿をたまに鏡で見ると、年をとったことがわかる。

でも、もっと年をとったなあと思うのは、成長した子供の写真を見たときだ。
なぜか、自分にもこんなときがあった、と思うようになった。

子供がある程度大きくなって、手を離れたからだろうか…。
小学生のときは、あまり思わなかったが、子供が中学生、高校生になると、そんなふうに思いはじめる。
そこから、逆に考えて、自分の年を感じるのだ。

たんに年をとったと感じるだけでなく、そこには何ともいえない哀愁がある。
そこには、もう戻れない…という感覚だ。

意識では、別に、中学生や高校生に戻りたいとは思わない。
苦労してこの年まで生きてきたのだ。

それでも、哀愁を感じるのはなぜだろう。

ひょっとしたら、年をとるとともに、失ってきたものを思うからだろうか。

何だかわからないエネルギーを持った気持ち。
自分とは何ものだろうという疑問や、無限と思えるような未来、わかっているようで、まったくわかっていない若さ…。

自分がそれらをなくしてきた、ということが哀愁を呼ぶのか、それとも、彼らがこれからそれらを失っていくことに哀愁を覚えるのか。

若いということは、素晴らしいことでもあるが、哀しいことでもあるのかもしれない。

失ってしまったものは、強い。失うものがなくなっているのだから。

これから大人になろうとしている子供の写真を見て、そんなことを思った。

子どもたちが大人になって良かったと思えるように、大人は頑張らないと…。



| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |