考えたこと2

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大学1年生
世間もだいぶ変わってきた。

こんな記事が出る。

「動物園」の読み仮名に「flower」の日本語訳、456センチを10等分した値――。6月上旬、大阪国際大(大阪府守口市)の1年生向け授業「フレッシュマンセミナー」で、タブレットに次々と現れる問題に学生たちが向き合っていた。
 出題内容は小学校レベルも少なくないが、指定校推薦で入学した男子学生(19)は「忘れちゃったことも多いから助かる」と屈託ない。併用する教科書は「友達の名前を覚えましょう」「教科書を音読しましょう」と、大学生活の心得を手取り足取り説く。
 一見、大学とは思えない講義風景にも、佐藤智明教授は「アカデミズムより作法。寺子屋のように基礎からやるしかない」と明快だ。

日経新聞の7月22日の記事。
5〜6年前に、東京の方で、アルファベットの筆記体や簡単な算数を1年生の科目に入れている大学が、レベルが低いという批判をされたのだが、もうそれは定着したようだ。
いいことか、悪いことかは知らないが…。
この記事が出て、大阪国際大が批判されたという話は聞かないし、話題にもならない。

要は小中学校のレベルを大学で復讐しているということ。
これはとりもなおさず、入試が機能していないということだ。
国語や英語、算数で、小中学校の復習をしないといけないような学生が、大学に入学できている。
それが悪いこととは言わない。
AOや推薦など、あまり学力を問わない入試もある。
その人たちを入れないと経営が成り立たない部分もあるのだろう。

しかし、そういう状態にあって、入試改革で中教審は今の入試は知識偏重だ、というスタンス。
おかしくないか。
知識を詰め込まれているなら、もう少しレベルは高いはずだ。
詰め込もうとして失敗している、というべきだろう。
だから、人物重視だという。
そんないい加減な試験でいいのだろうか。
言葉は悪いが、人物を選別する人物が、学校しか知らない連中なのだ。

文科省は大学に金を投入するのは減らし、もっと小中学校に投入すべきだ。
小中の事務を増やし、クラブ活動を外注し、先生に教育をちゃんとしてもらわないといけない。
18歳で小学校卒のレベルに苦労する学生を生み出している事実を、もっと重く受け止めるべきだ。
彼らが中高の6年間、どんな気持ちで授業を聞いてたのかを考えると胸が痛む。
中学や高校の先生は、それに気がついても、教えてやれない。
それでも、教育課程に示された科目は実施するのだ。

大学も悪い。
そういう事実を隠して、文科省を批判しない。
学問の府だとか、自由が大事とか言っているが、結局は監督官庁に何も言えない。
国公私立大学が結託して、今の教育はなっとらん、と言えないのか。
あ、そうか、その教員を要請しているのも大学だから、言えないのか…。
それでも、教育に関係のない学部などたくさんあるし、そこから声を上げたらいいのだ。
それが言えないのなら、偉そうなことを言うな。

記事の最後に書いてある。

別のある50代の私大教授は、高校や中学の教員と今の教育について話したことが忘れられない。高校教員は「中学校が問題だ」といい、中学教員は「小学校が不十分」。結局、その場の結論は「家庭に問題がある」に落ち着いた。「皆が責任を押しつけ合う結果、しわ寄せが大学に来ている」

大学が学問の府だというのなら、こういう社会の問題こそ、筋道を立てて行政に意見するのがスジだ。

そうではないか。

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