考えたこと2

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ポワロ
エルキュール・ポワロは、アガサ・クリスティが作りだした探偵。

ベルギー人である。
なぜ、クリスティがポワロをベルギー人にしたのか、よくわからないが、会話の端々に出てくるフランス語は、潔癖性でキザなポワロの知性というか、「灰色の脳細胞」というキャラクターをあらわしているような気がする。

ありがとうを「メルシー」、友達を「モナミ」、ミスターを「ムッシュー」という(翻訳でルビがふられている)ポワロは、こないだ書いたフィリップ・マーロウを筆頭とするハードボイルドの探偵とは対極的な探偵だ。

お金に困っていない。
身だしなみに気を遣い、いつもきれいな格好。
美食家で、カネがないときは冷蔵庫に入っているモノで済ましたりしない。
だいたい、小説の舞台が金持ちの集まりだったり、犯人も含めて、上流階級が多い。

一人ではない。
たいがい、ヘイスティングというパートナーを連れている。
力仕事やアブナイ仕事は任せ、もっぱら知的な調査にいそしむ。

この二つは大きい違いだ。

以前、けっこうな数のクリスティのミステリを読んだ。
母がファンだったので、家にたくさんあったからだ。

オリエント急行の殺人、そして誰もいなくなった、ゼロ時間へ…。

イギリスのミステリと、アメリカのハードボイルドとは同じ探偵でも全く違う。

マーロウの事を書いたら、やっぱりポワロの事も書かないと片手落ちになる…という思いがある。

マーロウとポワロの一番の違いは、ポワロは死ぬところまで小説になっている事だと思う。
「カーテン」という作品で、クリスティは文字通りポワロの人生に幕を引く。
早くから最後の作品は書かれていて、金庫に入れられていたとのこと。

この、ちゃんと死ぬところまで書いておく、というのがイギリスらしいなあ…と思う。

カーテンが発表されたときに、ロンドンタイムズではなく、ニューヨークタイムズにポワロの死亡記事が載ったらしい。

このあたり、ニューヨーカーの洒落っ気にロンドンの人たちは悔しい思いをしたのだろうか。
英語がわかれば、当時の新聞を見てみるのだが…。

それはさておき、今の日本に、ポワロのように作品中でなくなったときに死亡記事が出るようなヒーローがいるかな…。
だいたい、作家は自分が作りだしたヒーローを死なせたりしないのか…。

名探偵コナンは死にそうにないし、古畑任三郎はせいぜい定年になるくらいだろう。

考えてもムダか…、日本の新聞社にそんな洒落っ気はないだろう。


| | 考えたこと | 22:21 | comments(4) | trackbacks(0) |
英語は合理的?
子どもが英語は合理的で、日本語は合理的でないという。

その理由は、日本語では「自分」をあらわす言葉が、「私」「ぼく」「おれ」など、いくつもあること、語順に英語ほど規則性がないことなどをあげていた。

たしかに、人称代名詞については、和洋の違いは明らかだ。
西洋の「I」や「You」という言葉はずっと変化していないらしいが、日本語では、「御前」「貴方」など場所をあらわす言葉が人をあらわす言葉になったり、「君」のように昔は高い地位をあらわす言葉がだんだんと普通の人をあらわす言葉になったりしている。

これは、だれかが言っていたが、西洋では神と人の関係が1対1なので、「神」に対する「私」はずっと変わらないのに対して、日本では「神」対「人」という概念はなく、「人」対「人」という和の中で「自分」や「他人」を区別するので、日本語の人称代名詞はたくさんあるのだ、ということらしい。すごく納得したので、よく覚えている。(そのわりに、誰が言ったかは覚えてない…)

語順に関しても、日本語や韓国語は膠着語という分類であり、「膠着」というのは、「ニカワでひっつける」という意味で、要は助詞などを使って、どんどん言葉をひっつけていく、という形式の言語だと聞いた。
それは、その通りで、「ぼくは買い物に行った」と言ってもいいし、「買い物にぼくは行った」と言ってもよい。
英語で言えば、"I went shopping."としか言えないと思う。
肯定、否定もあとでひっつける事ができるので、「ぼくは…と思う」というのを否定するのは「ぼくは…と思わない」で、肯定か否定かは文末まで保留される。
英語で言うと、肯定・否定は"I think…"か、"I do not think…"であらわす場合が多く、最初に宣言される。(もちろん、…の部分を肯定文にしたり否定文にしたりすることで、ひっくり返すことも可能だが)

そんな事があって、日本語は合理的でないという。

しかし、日本語は漢字、カタカナ、ひらかなという文字を使って、古くはアジアの言葉を、新しくは西洋の種々の概念を日本語の中に取り込む柔軟性を持っており、それが日本の文化を豊かにしている。
だから、合理的でないとは言えないのではないか?と言ってみたが、「柔軟性があることと、合理的であることは別のことだ」と言い返され、「それもそうやな」という事になってしまった。

実はぼくも若いころは、日本語は英語に比べて合理的でない、と思っていた。

でも、年をとるにつれ、必ずしもそうではない、と思うようになった。
それは日本人として、年を重ねるうちに、日本語が合理的でないと思いたくなくなったからなのか…。(これも日本語的な表現だ)

素直に同意できない気持ちになってしまう。

結局は説得することはできなかった。
内心そう思っていることは、やっぱり説得できない。

しかし、それだからといって、日本語が劣っていることはないという事だけは伝わったと思うのだが…。




| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |