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経営者の条件
経営者の条件 P.F.ドラッカー ダイヤモンド社

ダイヤモンド社からは以前しつこく通信教育の勧誘を受けて、こんな会社のものは二度と買わないと思ったのだが、どうしても読みたかったので仕方なく買ってしまった。
ドラッカーの入門書としては最も基本的なものとのこと。

「普通のマネジメントの本は、人をマネジメントする方法について書いている。しかし本書は、業績をあげるために、自らをマネジメントする方法について書いた。」

とまえがきに書かれている。

章立ては、

第1章 成果を上げる能力は修得できる
第2章 汝の時間を知れ
第3章 どのような貢献ができるか
第4章 強みを生かせ
第5章 最も重要なことから始めよ
第6章 意志決定とは何か
第7章 成果を上げる意志決定とは何か
第8章 成果を上げることを修得せよ

となっている。なじみのない人には、見るからに面白くなさそうな本に見えるだろう…。

でも、ドラッカーの面白いところは、誰が読んでも納得できるやさしい書き方をしているところだと思う。
主に組織のことについて書いているが、それは普遍性のあるものであり、別に組織のマネジメントいうようなことに関わっていない人でも、読むことで頭がスッキリする。
実例に裏打ちされた内容が大半であり、読んでしまうと当たり前のことだと思える。
だが、その当たり前のことをわかるように書く、というのがすごいことだ。

「知力や想像力や知識は、あくまでも基礎的な資質である。それらの資質を成果に結びつけるには、成果をあげるための能力が必要である。知力や想像力や知識は、成果の限界を設定するだけである。」

なるほど…と思う。実際、たくさんの優秀な官僚が、驚くほど愚かなことをやってきたという実例を見ても、この言葉は当たり前だと思う。
しかし、それをこんな風に明確に書けるというのはすばらしい。

まず、何が成果かということだ。

「医者は、自らの態勢を整え、仕事を組織化する能力において、特に優れているわけではない。しかし、成果をあげることに大きな困難を感じる医者は、ほとんどいない。」

患者の病気を治すことが成果であることがハッキリしている、病院やクリニックは、成果が明確だという。

「医者の場合には、仕事の流れに身を任せることが正しい。入ってきた患者に「どうしました」と聞く医者は、自分の仕事に関係のある答えを期待できる。「眠れません。三週間も寝つきが悪いんです」という訴えが、優先して取り上げるべき問題を教えてくれる。診察ののち、その不眠症が、はるかに深刻な病気の症状の一つにすぎないと判断した場合でも、何はともあれ、何日かぐっすり眠れるよう処置してやることができる。
 しかし、エグゼクティブに対しては、日常の仕事は、ほとんどの場合、本当の問題どころか、何も教えてくれない。医者にとって患者の訴えが重要となるのは、それが患者にとって重要な問題だからである。これに対し、エグゼクティブは、はるかに複雑な世界と対峙している。何が本質的に重要な意味をもち、何が派生的なものにすぎないかは、個々の事象それ自体からは、知る由もない。
 症状についての患者の話が、医者の手がかりになるのに対し、個々の事象は、エグゼクティブにとって問題の徴候ですらないかもしれない。
 したがって、日常の仕事の流れに任せて、何を行い、何に取り組み、何を取り上げるかを決定していたのでは、日常業務に自らを埋没させることになってしまう。たとえ有能であっても、いたずらに自らの知識と能力を消費し、あげることのできた成果を捨てることになってしまう。
 エグゼクティブに必要なものは、本当に重要なもの、つまり貢献と成果に向けて働くことを可能にしてくれるものの判断の基準である。しかし、そのような基準は、日常の仕事の中からは見いだせない。」

目の前の仕事をするだけは、成果をあげるために何をしたらよいのかわからない…というのは、多くの組織で起こっていることだと思う。
多くの場合は、「何をしたらよいのかわからない」と思うことすら難しいことになっているだろう。

組織というとたいそうに聞こえるが、何人かのメンバーで何かをしようとしている団体なら、どこでも当てはまるし、自分が管理者であろうとなかろうと、ここに書かれているような問題は存在する。

「しかも、組織の内部には、成果は存在しない。すべての成果は、外部の世界にある。」

「根本的な問題は、組織にとって最も重要な意味を持つ外部の出来事が、多くの場合、定性的であり、定量化できないというところにある。それらはまだ、いわゆる「事実」にはなっていない。「事実」とは、つまるところ、だれかが分類し、レッテルを貼った出来事のことである。
 定量化のためには、概念がなければならない。そして、無限の出来事の集積から特定の出来事を抽出し、名称をつけ、数えなければならない。」

そのとおりだと思う。
ここでも、読んだ後で当たり前だと思うことが書かれている。
しかし、読む前には、そのことを当たり前だと思うことすら難しい。
そこに、読んだら頭がスッキリする、という「ドラッカー効果」がある。

「コンピュータは論理の機械である。まさにそれが強みであって、同時に限界である。外部の重要な事象は、コンピュータやなんらかのシステムが処理できるような形では、把握できない。しかし、人間は、特に論理的には優れてはいないが、知覚的な存在である。そしてまさに、それが強みである。」

成果をあげるために身につけるべき習慣は…

1.何に自分の時間がとられているかを知ること。
2.外部の世界に対する貢献に焦点を当てること。
3.強みを基準に据えること。
4.優れた仕事が際だった成果をあげる領域に、力を集中すること。
5.最後に成果をあげるよう意志決定を行うこと。

これが、この本に書かれていることである。

「よくマネジメントされた組織は、退屈な組織である。そのような組織では、真に劇的なことは、昨日の尻ぬぐいのためのカラ騒ぎではない。それは、明日をつくるための意志決定である。」

本当にそのとおり!
騒ぎが起こるような仕事はヨクナイのだ。
お祭りと意識してやるなら良いが、騒ぎが起こり、うまく収拾できたら、それを成果とするような組織がたくさんあると思う。
本当は、騒ぎが起こらないことが第一なのだ。

「いかに地位や肩書きが高くとも、努力に焦点を合わせたり、下に向けての権限を重視する者は、他の人間の部下であるにすぎない。これに対し、いかに若い新入りであろうとも、貢献に焦点を合わせ、結果に責任を持つ者は、最も厳格な意味において、トップマネジメントである。組織全体の業績に責任を持とうとしているからである。」

人事についても、うならせるようなことが書かれている。

「他人に成果をあげさせるためには、決して、「彼は私とうまくやっていけるか」を考えてはならない。「彼はどのような貢献ができるか」を問わなければならない。また、「何ができないか」を考えてはならない。常に「何を非常によくできるか」を考えなければならない。特に人事では、一つの重要な分野における卓越さを求めなければならない。」

これは、できるようで、なかなか出来ないことだと思う。
特に、日本のような合意形成型の気持ちが強い組織では、難しいだろう…。

人事考課のところで、トップの重要性が書かれている。

「部下、特に頭の切れる野心的な若い部下は、力強い上司をまねる。したがって、組織において、力強くはあっても腐ったエグゼクティブほど、ほかのものを腐らせる者はいない。
 そのような人間は、自分の仕事では成果をあげることができるかもしれない。ほかの人間に対し影響力を与える力のない地位におくならば、害はないかもしれない。しかし、影響力のある地位に置くならば破壊的である。
 これは、人間の弱みがそれ自体、重要かつ大きな意味をもつ唯一の領域である。
 人間性や品性は、それ自体では何もなしえない。しかし、それらがなければ、他のあらゆるものを破壊する。したがって、人間性や品性のかかわる欠陥は、単に仕事上の能力や強みに対する制約条件であるにとどまらず、それ自体が、人を失格にしてしまうという唯一の弱みである。」

この部分は、非常に主観的な表現だが、トップの重要性のうち、大きなものだと思う。
一つの分野における卓越さというものとのバランスということが、現実的には問題になると思う。

政府のような機関がやっていることについて、こんなことが書いてある。

「あらゆる計画は、急速にその有用性を失うものであり、したがって、生産的であり必要であることが証明されないかぎり、必ず破棄されなければならないという考え方こそ必要とされている。さもなければ、政府は、規則や規制や書式によって社会を窒息させつつ、自らの脂肪によって自らを窒息させてしまう。」

もちろん、政府機関だけに言えることではないが、どこにでも多かれ少なかれ「前例主義」というものがあるだろう。
それに対する警鐘だと思う。

意志決定のところには、こんな言葉ある。

「何が受け入れやすいか、また何が反対を招くからいうべきではないかを心配することは無益であって、時間の無駄である。心配したことは決して起こらず、予想しなかった困難や苦情が突然、ほとんど対処しがたい障害となって現れる。換言するならば、「何が受け入れやすいか」という問いからスタートしても、何も得るところはない。
 それどころか、通常、この問いに答える過程において、重要なことを犠牲にし、正しい答えはもちろん、成果に結びつきうる答えを得る望みさえなくしてしまう。」

この言葉は耳が痛い。
合意を形成することだけが目的になってしまっている会議がいかに多いか…。
問題を解決するためにやっているはずなのに、合意さえ形成されればよいというヤツだ。
国会の議論なども、ほとんどがそうなってしまっているのではないか…。

コンピュータの発達と、現場主義の重要性についても、書かれている。

「コンピュータの到来とともに、このことは、ますます重要になる。意志決定を行う者は、行動の現場からさらに遠く隔てられることになるからである。彼らは、自ら出かけていって、自らの目で行動の現場を見ることを当然のこととしないかぎり、ますます現実から遊離することになる。
 コンピュータが扱うことのできるものは抽象である。抽象されたものが信頼できるのは、それが具体的な現実によって確認されたときだけである。この確認がなければ、抽象は人を間違って導く。
 自ら出かけていって、自らの目で確かめることは、意志決定の前提となっていたものが有効であるか、それとも、それらが陳腐化しており、意志決定そのものについて再検討の必要があるかどうかを知るための、唯一の方法ではなくとも、少なくとも最良の方法である。」

現地現物主義…大事な言葉だと思う。なつかしい言葉だ…。

そして、意志決定の際の「事実」と何かについて、すごい言葉で書いてある。

「意志決定は判断である。それは、選択肢からの選択である。しかし、意志決定が、正しいものと間違ったものとの選択であることは稀である。せいぜいのところ、ほとんど正しいものと、おそらく間違っているものとの選択である。
 それよりもはるかに多いのは、一方が他方よりも、おそらくかろうじて正しいということさえいえないような二つの行動からの選択である。
 意志決定に関する文献のほとんどは、「まず事実を探せ」という。しかし成果をあげる意志決定を行うエグゼクティブは、事実からスタートなどできないことを知っている。だれもが、自分の意見からスタートする。しかし意見は、未検証の仮説にすぎず、したがって当然現実に対して検証されなければならない。
 何が事実であるかを確定するためには、まず有意味性の基準、特に評価の基準についての決定が必要である。これが成果をあげる意志決定の要であり、通常、最も判断の分かれるところである。
 また成果をあげる意志決定は、意志決定に関する文献の多くが説いているような事実に関する合意からは生まれはしない。正しい意志決定は、共通の理解と、意見の衝突と対立、そして競合する複数の選択肢についての真剣な検討から生まれる。
 最初に事実を把握することはできない。有意性の基準がなければ、事実というものはありえない。事象そのものは、事実ではない。」

最初の方にも書いてあった通り、「事実」というのは、誰かが分類してレッテルを貼ったもの…ということだ。

現実は複雑であり、どこから光を当てるかで、意味は変わってくる。
正しい方向から光を当てる、ということが大事だということだろう。
事実とは、現実の解釈の一つであり、その解釈の基準をもっていなければ、そもそも事実を認めることすらできない、ということだ。
これは、東洋的な考え方だと思う。
ドラッカーが日本のことをよく知っていたことの効果なのだろうか…。

意志決定の最後の段階について、また当たり前のことが書かれている。

「ここでついに、意志決定には、判断力と同じくらい勇気が必要であるということが明らかになる。薬が苦くなければならないという必然的な理由はない。しかし一般的に、良薬は苦い。同じく、意志決定が苦くなければならないという必然的な理由はない。しかし一般的に、成果をあげる意志決定は苦い。
 ここで絶対にしてはならないことがある。「もう一度調べよう」という誘惑に負けてはならない。それは臆病者の手である。そして臆病者は、勇者が一度死ぬところを一〇〇〇回死ぬ。」

ドラッカーらしい、組織論が最後の部分にある。

「組織は、優秀な人たちがいるから成果をあげるのではない。組織は、組織の水準や習慣や気風によって、自己開発を動機づけるから、優秀な人たちをもつことになる。そして、そのような組織の水準や文化や気風は、一人一人の人間が自ら成果をあげるエグゼクティブとなるべく、目的意識をもって体系的に、かつ焦点を絞って自己訓練に努めるからこそ生まれてくる。
 現代社会は、存続するためとまではいわなくとも、機能を続けるためには、組織の成果をあげる能力、その活動と成果、その価値と水準、そしてその自己規律に大きく依存する。
 今日、組織の活動は、経済的分野、さらには社会的分野さえ超えて、教育、保健、知識の分野において、決定的に重大な意味をもつようになった。しかも、組織のうち重要なものは、ますます知識組織となってきた。すでにそれらの組織は、多くの知識労働者を雇用している。」

「少なくとも一九世紀には、肉体労働者は経済的な目的だけをもち、経済的な報酬だけで満足すると信じられていた。しかもそのような考えは、人間関係学派が明らかにしたように、事実とはほど遠いものだった。賃金が最低生活基準を超えた瞬間、そのようなことはもはや事実ではなくなった。
 知識労働者も経済的な報酬は要求する。報酬の不足は問題である。しかし、報酬の存在だけでは十分ではない。知識労働者は、機会、達成、自己実現、価値を必要とする。しかるに知識労働者は、自ら成果をあげるエグゼクティブにすることによってのみ、それらの満足を得ることができる。」

これが、1966年に書かれた本である。
ドラッカー博士はすごいと思う。

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