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2024.07.24 Wednesday
お墓
今日は母の命日だが、まだお骨は家にある。
今ある墓は父が広島の三次から自分の父親、早逝した弟の墓を移して、六甲山の裏に持ってきた。 そこに父自身と祖母、先に亡くなった妹も分骨して入っている。 母もそこに入るつもりでいたのだと思う。 昔テレビの深夜枠のローカルCMで「墓のない人生は儚い人生」と、ナントカ石材店が広告していた。 どこの墓に入るか、ということが昭和の時代は大事だったのだろう。 ぼくはいまだに母が亡くなったという実感がないので、線香もあげないし、アマゾンで2万円で買った仏壇にも参らない。 弟に聞いたら、彼はどこかのお寺に永代供養でもお願いするつもりとのこと。 ぼくは別に入ってもいいとは思うが、子供が二人とも東京で就職し、あまり関西に帰ってほこないような気もするので、不便だろうと思う。 家内はどうしたいのか、聞いてはいない。 墓は葬式と同じく、生きている人のためのものだ。 本人は死んでいるのだから、もうどうでもいい。 極端な話、死ぬときに「ここの墓に入れてくれ」と伝えて、「いいよ」と言われたらそれでいいのだ。 それが実行されようが、されなかろうが、どうでもいい。 うちの墓にはもう何年も行っていない。 母はもう一度行きたかったと思うが、コロナになって、認知症になって、もう行けなかった。 ぼくも一人では行く気にならなかった。 周りに聞くと、もう墓じまいして永代供養とかいう人もいる。 ぼくもそうしようかなと思っている。 どこかにお骨を持って行かないといけない。 祖母も父も母も、わりと信心深かった。 母は古典が好きで、その影響で仏教そのものにも詳しかった。 ぼくは仏教系の学校法人で10年勤めて、仏教についてだいぶわかった。 日本の仏教は葬式で儲けるようになって堕落したと思う。 宗教の本質は「死ぬこと」だと思うが、それが金儲けになってしまった。 何度か書いたが、坊さんが自分の死後のことを心配する、と言う時代。 これでは救われない。 父の何回忌かで、西本願寺に行ったこともある。 完全にビジネスになっているなあ、と思った。 いくつかのお寺にいままでお世話になっているが、ありがたみを感じたこともほとんどない。 一周忌で盆前に関係者で食事をすることになった。 その時に、相談しようと思う。 ぼくは長男に生まれたから、そういう役割なのだ。 単に順番だけのこと。 それでも、通り一遍のことをしようと思うと、お金がかかる。 無駄だと思うのだが、なかなか難しい。 どうしようかな。 |
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