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2024.04.04 Thursday
愛妻弁当
サンドウィッチマンの漫才の中で、「世の中的には愛妻弁当がいい」というセリフがあった。
そういえば、若いころには奥さんが作った弁当を持ってくる人もいたと思う。 そういうのが、うらやましいとか、少しやっかみも入っていた。 でも、今ではそれはポリコレ(ポリティカリー・コレクトネス=政治的に正しい)に引っかかると思う。 弁当は妻が作るもの、という前提の言葉だからだろう。 ネットで男性のブロガーが、自分で弁当を作っているのだが「それは愛妻弁当?」と言われると不愉快だと書いていた。 自分が作ったのに、妻が作ったと思われるということと、「性別役割分業」の意識があるからだ、という理由。 たしかにそう言われればそうだ。 最近は多様性を尊重し、男女(この境界もはっきりしなくなってきたが)の差別(区別も含むと思う)を前提にした言葉はダメだと言われることが多い。 「愛妻弁当」もその類で、だんだんと使われなくなるのだろう。 まだ「死語」の域には達していないが…。 どうもそういう「多様性」には違和感を感じる。 古い人間だからだろう。 役割を決めつけるのはよくない。 ただ、その言葉ができたころには、それが受け入れられる価値観があったということだ。 当時、そういう非難の目で「愛妻弁当」を見ていた人がいただろうか。 ぼくにはわからないが…。 今回の朝ドラは昭和の始めの物語。 ヒロインは法律を勉強するという。 ぼくは年を取ったから、思うようになったのだが、ある時代の価値観を後世の価値観で測るのはいけないということだ。 女子が自由に物を言い、自由に生きることはいいことだが、あの時代にはそういうことは少なくとも時代として一般的ではなかった。 だから、女子がみんな不幸だったかというと、そんなことはないと思う。 それなりに、幸せなこともあったはずだ。 昭和の初期の時代はそういう時代だったのだ。 その精神は憲法にも、民法にも現れている。 普通に読めば、憲法で規定している結婚は男女の結婚だけだろう。 何でも過去のものを偽悪的に描くのは今のマスコミの風潮。 古いものだけでなく、資本家や大企業は悪だ、というステレオタイプ。 今の豊かな時代を築いてきたのは、そういう人たちが頑張ってきたからではなかったのか。 ぼくらと一緒に、そういう言葉も世の中からなくなっていくのだろう。 |
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