考えたこと2

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教員は学ばない
10年間大学の事務局に勤めている時に感じたことは、教員は学ばないということ。
この「学ばない」というのは研究しない、ということではない。
研究はたぶん熱心にやっているのだろう。
教育について学ばない、という意味だ。
ぼくの勤めていた大学がひどかったのかもしれない(そう指摘する先生もいた)。

大学の教員には教育と研究という2つの側面がある。
上位の大学は、一般的に学生も優秀なので研究の比率が上がる。
先生が研究する姿を見て、学生も勉強するということだ。

下位の大学では、なかなかそういう事にはならない。
背中を見せるだけでは無理なのだ。
だから、必然的に教育の比率を上げないといけない。
しかし、大学教員というのは学生に教える方法を学んできていない。

下位の大学では、そもそも入試が成立していないのだ。
文系の私学であればAO、推薦で半分以上が入学し、一般入試は英語、国語と社会の1科目。
少々高校の成績や入試が悪くても、定員を少しでも増やしたいから、合格させてしまう。
合格させたのなら、それに見合った教育をしないといけないのだが、それは難しい。
基礎的な日本語のテキストを読む力も不足しているのだ。

そのために、初年次演習という科目を置いて、図書館の使い方やレポートの書き方など、最低限の知識をレクチャーしている。
冗談抜きで、20歳までは酒を飲むなとか、授業が始まる時に机の上に置いておくものまで授業で伝える。。

だから、FDという教育改善の活動をやる。
要するに、どうやってそういう学生を教えて、専門としている科目につなげていくかということだ。
ぼくの勤務していた学校でも、例にもれずFD委員会というのがあって、活動していた。

毎年FD講演会というのをやって、教員が出席する。
出席率が低く、学長が怒って出席を促したら(具体的には、出席しないと学校を変わる時に不利になるぞと脅した)、結構な人数が出席した。
講演を聞いて、質疑応答も活発だったので、これは良かったと思ったら、結局授業は全く変わらない。
教務に聞いたら、「そんなん変わるわけない」とのことだった。
こういうことが、日常茶飯で起こっているのが下位の大学。

それと同じことが義務教育でも起こっているようだ。
2月13日の日経に「学校パソコン、もう返したい 教師の本音「紙と鉛筆で」」という記事が出た。

文科省のギガスクール構想が空回りしているという。
1人1台の端末を持たせるという構想。
記事の最初にはこう書いてある。

「義務教育の子どもにパソコンやタブレット端末を1人1台ずつ持たせる「GIGAスクール」構想が空回りしている。国の予算でばらまかれた端末を持て余す現場からは「もう返したい」との声も出る。日本の教育ICT(情報通信技術)はもともと主要国で最低レベル。責任の所在がはっきりせぬまま巨額の税金を投じたあげく、政策が勢いを失いつつある。」

現場から「もう返したい」という声も出るとは、どういうことなんだろう。
中盤にはこうある。

「大がかりな政策の狙いは、教育ICTの遅れを挽回することだった。経済協力開発機構(OECD)の18年調査で、日本は国語の授業でデジタル機器を使う割合が14%にとどまった。毎日かほぼ毎日コンピューターで宿題をする割合はわずか3%。いずれも主要国で最下位に沈んでいた。

ところが、国から自治体、教育委員会、さらに学校という歯車はかみ合わない。それが露呈したのがコロナ緊急事態宣言下のオンライン授業だ。21年9月に夏休みを延長したり、時短授業をしたりした小中学校のうち文部科学省の調査に「実施する」と回答したのは約3割。国によって感染状況が異なり単純比較できないが、レノボ・ジャパンの調査ではインドネシアやフィリピンを下回った。」

前から書いているが、英語やプログラミングなど、新しいことをやろうと思うのなら、まず教える方を教育しないといけない。
それをやらないなら、教えられる人を新たに入れるしかない。
そんなの、当たり前だと思うのだが、文科省は十年一日の如く、教職課程を変えない。

今の先生が「紙と鉛筆」以外を使って教えられないということは、要するにそれ以外の方法を学ぶ気がないということだ。
普通の職場では、これを「わがまま」という。
仕事のやり方は変えないほうが楽に決まっている。
それでも、外部(この場合は他国)に対して劣っているから、変えなければならないのだ。

教育は国家百年の大計だというのに、どうしてこんなわがままが許されるのだろう。

ぼくは不思議だ。

例外の人がいたら、申し訳ありません。




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