考えたこと2

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大学教授の資格
「大学教員の教育」について下位の大学では求められる資質について書いたが、では大学教員の資格はどうなっているか、ということになる。
前にも一度書いたのだが…。

それを担保するものは明確ではないが、目安として「論文数」「著書数」が挙げられる。
というか、それ以外にはないと思う。

単に過去に出していればいいというものではない。
継続的に出していることが求められる。
過去何年間で査読付き論文を何本というような具合。
准教授や教授に昇任するときにもその審査はある。
これは大学の自己点検(7年に一度の第三者評価)の時に、そういう基準がなければダメということで、担保されている。
ぼくの勤めていた大学も、決めるときはだいぶ揉めたが、そういう基準を明文化した。
逆に言うと、文科省の基準はあっても、学内に昇任基準もなかったのだから、いい加減なものだ。

でも、新学部開設の際は教員審査がある。
担当の授業を教えることができるのか、という審査だ。
その審査はその分野で論文を出しているか、ということが基準になる。
ただ、文科省経由でやる審査は開設等の時だけなので、それ以降は教授会に任される。

新学部を開設する時には、審査に通るようにどこかの偉いセンセイを連れてくる。
定年前の人が多い。
その人が定年になったら、次に来る人が審査を通る人とは限らない。
大概はその学部のセンセイのコネが多い。
選んだセンセイも論文数など足りないのだから、自分よりエラい人は選ばない。
こんなふうにして、下位校の教授の質は低下していく。

ぼくの見たところ、良き研究者でないと、良き教育者にはなれないと思う。
良き研究者の判断基準は、査読付きの論文数、あるいは著書数が基準に達しているということだ。
これをちゃんと出している人は、やはり教育もちゃんとやる。
査読付き論文というのは、ちゃんとした学会誌に掲載されるもの。
学部紀要などというものは対象にはならないのだが、下位の大学のセンセイのほとんどは紀要ばかり。
自分の大学が出している紀要など、審査があるとは言えない。
その紀要すら、期日までに文章が集まらず、発行できなかったりする。
それでも大学のセンセイなのだから、呆れる。

また、著書といっても、大学業界の通例として、エライ先生が編者になって何人かの関係者で本を出版することがある。
ああいうのは、たいがい業績づくりのための本。
中には見るべきものもあったりするが、だいたいはアタリマエのことをわかりにくくグダグダ書いてあったりする。
値段は高くて、とても自分のカネで買う人はいないと思う。
ほとんどの本は大学図書館や関係者に配られるのだろう。
そういうことを生業にしている出版社もあって、大学に行って驚いた。

研究業績を見て、この先生こんなに著書があるのかと思ったら、1冊の本の数ページだけ書いている。
割当分を書くのだ。
数ページで著書1冊扱いはないだろうと思うが…。
それが研究業績になって、見たところの目くらましになる。
普通の社会では通らないことが、大学では横行している。

博士論文を本にする出版社もあって、1冊5000円を超える値段で数百冊単位で作ってくれる。
よくこんな商売が成り立つなあ、と思うのだが、それだけ需要があるのだ。
紙の無駄だ。

中にはちゃんとした出版社から出す人もいる。
そういう人はいいセンセイだが、残念ながら下位の大学にはほとんどいない。

ということで、ぼくの知っている文系私学に限れば、下位の大学のセンセイはおそらく大学の教員としての資格がない人が多いと思う。
おそらく、文科省もそれを知っているから、教員審査は開設の時しかやらないのだろう。

そんな不誠実なことをやっていて、何が「学問の自由」かと思う。
まず、身内の襟を正すべきだ。


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