考えたこと2

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調査書重視
ツイッターを見ていたら、文科省の「調査書重視」ということに対する批判があった。
今後の大学入試は「調査書重視」の方針だとも書いてあった。
これは入試が客観評価から主観評価を重視する方向に舵を切ったと考えられる。
具体的にはAO入試が想定されている。

AO入試は本気で真面目にやれば、いい入試制度だと思う。
日本で最初にAO入試を始めたのは慶応大。
これは「本気で真面目に」やって、成功したと言われている。
ぼくもいい制度だと思う。
ただ、「本気で、真面目に」ということを担保するのは大変難しい。

慶応が導入した後、どんどんAO入試が広がった。
残念ながら、今の多くのAO入試は、受験生を合法的に取るための手段になってしまった。
実質的に、面接で決める入試だから、恣意的に運用できる。
面接をするのは大学のセンセイだから、自分の生活がかかっていると思うと、マトモな判断はできない。
上位の大学はともかく、中下位の大学では、受験生の確保が至上命題になっている。
そのミッションは大学経営者だけでなく、センセイも忖度する。
定員割れを起こすと、研究費が減らされたり、自分の学部がなくなったりするからだ。
そこではどのレベルの学生を取るのか、などの理念はきれいさっぱり消えてなくなる。

もともと、AO入試が広がったのは、一発勝負の入試に対する批判からだ。
偶然、その日の調子が悪かったとか、0.1点差で落ちたりするのは妥当か?ということだろう。
それよりも、ずっと継続してきた成績や評価を見よう、というのが「AO=人物重視」の考え方。
それはそれで正しい。
ただ、さっきも言ったように、あくまで評価者がちゃんと評価している、という前提だ。
今の教育界を見ていると、それは非常に難しいと思う。

この制度が誤用されると、生徒に言うことを聞かせるために、調査書が利用される。
反抗的な生徒には「調査書の点を下げる」と言えば、効果は抜群だろう。
神戸市の教員いじめの対応を見ていると、残念ながら今の教員がそんなに崇高な精神を持っているとは思えない。
そう思うぼくも、エラそうなことは言えない。
人間とはそういうものなのだ。
世の中にイエスマンが増えたのも、この弊害がすでに出ているのかもしれない。

ツイッターの調査書重視への批判は「高校卒業認定取得者や通信制高校出身者、学校をドロップアウトした若者がが不利になる」というもの。
つまり、一度レールを踏み外すと、もう戻れないというものだ。
文科省は、自分たちが敷いたレールだけをいいものだと考えている。
それこそ、多様性を認めていない。

これは人生のやり直しを不可にして、格差を固定する方向になる。
格差拡大をさせないためには、今の一発勝負型の受験には意味がある。
ツイッターに出ていたが、18歳で暴走族のパシリだった人が、大学に行けたのもこの制度のおかげ。
この若者は18歳の時に勉強をやり直そうと思い、毎日13時間2年間勉強したらしい。
当然、英語の民間試験を何度も受ける財力もなかったという。

そういう人が報われるためには、今の受験制度を残すべきだと思う。

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