考えたこと2

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アクティブ・ラーニング その4
アクティブ・ラーニングについては何度か書いているが、いつも見ている中沢氏(元小学校で教師をやっておられた)のブログに記事があった。

中沢氏は、今コンピューターの世界で、AIとか、IoTとか、ビッグデーターとか言っているのと同じようなものが、教育業界での「アクティブ・ラーニング」だという。
この、アクティブ・ラーニングという言葉は、かなり広い意味で使われており、それ自体は文句のつけようがない、という。
だから、必然的に現場の教員も何をやっていいのか、今ひとつ判然としないらしい。

記事を引用すると、「「アクティブ・ラーニング」は、本名は「主体的対話的で深い学び」と言います。これはが「アクティブ・ラーニング」がすでに商標登録されていたから、急遽、「主体的対話的で深い学び」というまどろっこしい言いかえが行われたようです。この時点で、迷走感が満載ですね。」

アクティブ・ラーニングが商標登録されていたとは知らなかった。
これは、アメリカでは80年代くらいに高等教育改革の中で普及していった教育法の総称で、すでに「これは失敗だった」と総括されているようだとのこと。
それを今から日本でやろう、ということだ。

前にも書いたように、アクティブ・ラーニングと言って思い出すのは、ハーバードのサンデル教授がやった「白熱教室」だ。
あれは、マイケル・サンデルという的確な質問や問題提起ができる見事なガイド役と、それに応える優れた学生がいて、初めて成り立つものだと思う。
あのファシリテーションのスキルは大したものだと思う。
テーマについて、深い知識とたくさんの事例を知っていて、結論を出さないまでも、論点を明確にするための質問を出す能力のある学生がいるからこそのものだ。
どんな学校でも、どんな生徒でもできるというものではない。

中沢氏はそれを今の教員がやろうとすると、

「登場人物の(道徳的に正しい)心情を話し合おう」「公式を「発見」しよう」「かけ算の順番を考えよう」「みんなでやってはいけないことを決めよう」「順番に当番をまもるにはどうしたらいいだろう」「気持ちのよいあいさつをするにはどうしよう」「話を聞く時は、発表する人の目を見るのがよいのではないか」など、児童生徒に禁止事項や徳育の項目を作る話合いばかりになってしまい、せっかくの「アクティブ・ラーニング」も、なんだか「トホホ」なかんじになってしまいます。
けっきょく、指導するのが公立学校の教員なので、規律第一の話し合い「ごっこ」になってしまいますね。
方向性が間違っているうえに、やっている教員もなにを目指していいのかわかっていないのです。

という。

実際、大学で働いていた頃、文科省からの競争的資金を得たGP(グッド・プラクティス)のプログラムの発表会(学生が実施するもの)を見に行ったら、「トホホ」なものが多かった。

何でも「学生(生徒)主体がいいこと」というのは間違いだ。
大学ですら、そうなのだ。

ましてや、小学校でそんなことをやってはいけない。
それは教育を放棄しているに等しいと思う。
中沢氏はこうまとめている。

一方、知識を教えることは「教え込み授業」と学校現場で蔑まれています。精密機械やIT、バイオの世界のように、ビジネスモデルはますます知財・知識重視の時代なのに、学校(文科省)は勇ましく世界の趨勢に逆張りし、今日も挑戦を続けているのです。

本当にその通りだと思う。

大学で就職の筆記試験の指導をしていると、本当にそう思うのだ。

だから、文科省は解体すべきだと思う。


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