考えたこと2

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知識偏重
慶応の今井むつみという先生が、いいことを言っている。
さすが慶応、という記事

もちろん、今ホットになっている「アクティブラーニング」が取り上げられている。
今の教育界では、大勢の意見は、従来型の教育が「知識偏重」、これからの教育が「アクティブラーニング」ということになっている。
何かと言うと、「知識偏重」は良くない、「詰め込み教育」はだめだと言われる。
インターネットが発達して、知識は検索してすぐに得られるものになって、それをどう使うかということが課題、というような言い方だ。

それに対して、先生は言う。

「「主体的な学び」を標榜する人たちが、従来の学びを「知識偏重」と批判するのをよく耳にする。「知識はもういらない」という過激な言葉を聞いたときには驚愕した。認知科学の観点からすると、「学習」は「知識」と切り離して考えられないからである。」

ここで先生は言語を学ぶということを例にあげて、単語を覚えるということが、言葉の語彙体系や既存の言葉の修正をして、「学び方を学ぶ」ことができるのだ、と言う。

「言い換えれば、子どもは機械的に語彙中の単語の数を増やそうとだけしているのではない。個々のことばを超えた語彙というシステムの構造を発見すべく探究し、同時に、すでに持っている知識を修正、再編成している。

この過程があるから、母語の知識は「生きた知識」なのであり、すでに持っている知識が新たな知識を創り出すという「創造のループ」が生まれるのである。

このような、生きた知識を創造する過程こそが「アクティブラーニング」の本質である。「アクティブラーニング」を標榜するなら、知識を事実の断片の集まりととらえ、「知識偏重」と言って知識を非難する前に、まず知識とは何かを考え、知識の本当の姿を理解してほしい。」

まさにそのとおりだと思う。

そして、何かを「暗記」することも必要だと言う。
ただ、暗記するだけなら、それは死んだ知識になってしまうが、それを生かすためにどう学んだらいいかを工夫するのだ。
それこそが主体的な学びだ。

「学び、覚えたことが「生きた知識」になるか「死んだ知識」に終わってしまうかは、協同学習や対話学習などの学びの形式で決まるわけではない。

認知科学の重要な研究分野の1つに「熟達研究」がある。研究者たちは、学習者があることを熟達していく過程における心と脳の変化の過程を詳細に明らかにするとともに、さまざまな分野の超一流の達人がどのようなマインドを持ち、学びの工夫をしているのかを探究している。

数多くの研究からわかったこと。それは、達人たちは、必ず、自分で独自の「学び方の学び」を工夫していて、そのために常に試行錯誤をしているということである。

学びが、生きた知識を生むアクティブラーニングになっているかどうかは、学びへ向かう気持ちで決まるのである。」

学ぶ人、一人ひとりの学びに対する姿勢が重要であって、協同して何かすることが重要ではないのだ。

どうしてこういう人たちの意見を教育界は聞かないのだろうか。

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