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2018.04.16 Monday
教員審査
当たり前だが、学校を作ろうとすると、先生がいる。
小中高の場合は、一応国の免許があって(これもかなりいい加減だが)、採用試験もオープンにやられているから、最低限の質は担保されている。 最近は臨時講師や非常勤などのいろんなルートがあり、形骸化されているところも見受けられるが、それでも大学の先生に比べるとまだマシだ。 大学の先生は研究業績で主に評価される。 最近はそれ以外にも教育業績、地域貢献などもあるが、メインは学会での論文数や著書数などが指標。 文科省の過去5年間に査読付き論文が何本、というような指標はあるが、下位の学校ではいい加減に運用されている。 教員の補充や新しい分野の教員を採るときには、教員審査をやる。 ぼくのいた学校では、教授会でその分野の先生が選ばれ、審査委員になっていた。 ぼくはそれを事務局で見るという役目をやっていたことがある。 ほとんどが一般公募という形。 ホームページに教員公募の案内が出て、応募を受け付けるというもの。 それでも、たいがいは学内の先生がそれを知り合いに知らせ、応募してきたりするのが多かった。 中には全くの公募の人もいたが…。 ぼくのいた学校は下位校だったから、実績は見るも無残な人が多かった。 論文はほとんどが紀要(学校が自主的に出しているもの)だし、ちゃんとした査読付きの学会誌に、過去5年間で2本の論文という人はほとんどいなかった。 それはそうだろう。 学内にも、そんな人はほとんどいなかったのだから。 結局、下位校に応募してくるような人は、下位校なりの人なのだ。 悪貨は良貨を駆逐する、という言葉は真実だと思う。 研究実績が素晴らしい先生は、結局下位校にはほとんどいないのだ。 とはいえ、最初からいないわけではない。 まったく新しい学部を作るときや、大学を開学するときには、文科省で教員審査がある。 だから、だいたい新設の学部や学校は、まともな実績の先生が揃っている(はずだ)。 しかし、そういう先生方はコストが高いので、定年退職が近い先生が多い。 著書があったり、若い頃は活躍していた先生なのだろう。 下位の学校法人は、教員審査で指摘を受けると、どこかからそういう先生を引っ張ってこないといけない。 それでなんとか開学に間に合わせる。 ところが、その教員審査は開学して4年間経つと、一応完成年度ということになり、その後は大学に任される。 ここからが、いい加減になる。 講師から准教授になるときの審査も、教授に昇任するときの審査も、いい加減だ。 論文や著書の欄は極めて寂しい。 書いてあっても、殆どが紀要。 著書など、1冊のうち数ページだけ、というものもある。(初めてみた時は、わけが分からなかった) ぼくのいたところでは、一時は学内紀要は査読付き、ということを言っていたが、実質的には紀要を発行しようとすると、論文数が足りなくなって発行できなかったりした。 書きます、と言っていても期限までに提出しない人もいる。 そんな論文集に査読などあるわけがない。 査読付き、というのは、論文20本載せる予定のところに、50本も100本も来るから査読をして掲載を許可するためにやるものだ。 そんな状態の大学がたくさんある。 それが日本の現実なのだ。 教員審査をもっと厳しくすれば、大学の教員になれない人たちがどんどん出てくる。 そうなると、若い研究者たちが就職しやすくなるはず。 若い人は、総じて教育にも熱心だ。 でも、学校法人で潰れるところも出てくるから、天下り先が減ることになり、文科省はそんなことはしない。 そういう役人と学校法人の癒着が、日本の教育をダメにしているのだと思う。 |
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