考えたこと2

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教員審査
当たり前だが、学校を作ろうとすると、先生がいる。
小中高の場合は、一応国の免許があって(これもかなりいい加減だが)、採用試験もオープンにやられているから、最低限の質は担保されている。
最近は臨時講師や非常勤などのいろんなルートがあり、形骸化されているところも見受けられるが、それでも大学の先生に比べるとまだマシだ。

大学の先生は研究業績で主に評価される。
最近はそれ以外にも教育業績、地域貢献などもあるが、メインは学会での論文数や著書数などが指標。
文科省の過去5年間に査読付き論文が何本、というような指標はあるが、下位の学校ではいい加減に運用されている。

教員の補充や新しい分野の教員を採るときには、教員審査をやる。
ぼくのいた学校では、教授会でその分野の先生が選ばれ、審査委員になっていた。
ぼくはそれを事務局で見るという役目をやっていたことがある。

ほとんどが一般公募という形。
ホームページに教員公募の案内が出て、応募を受け付けるというもの。
それでも、たいがいは学内の先生がそれを知り合いに知らせ、応募してきたりするのが多かった。
中には全くの公募の人もいたが…。

ぼくのいた学校は下位校だったから、実績は見るも無残な人が多かった。
論文はほとんどが紀要(学校が自主的に出しているもの)だし、ちゃんとした査読付きの学会誌に、過去5年間で2本の論文という人はほとんどいなかった。
それはそうだろう。
学内にも、そんな人はほとんどいなかったのだから。
結局、下位校に応募してくるような人は、下位校なりの人なのだ。

悪貨は良貨を駆逐する、という言葉は真実だと思う。
研究実績が素晴らしい先生は、結局下位校にはほとんどいないのだ。

とはいえ、最初からいないわけではない。
まったく新しい学部を作るときや、大学を開学するときには、文科省で教員審査がある。
だから、だいたい新設の学部や学校は、まともな実績の先生が揃っている(はずだ)。
しかし、そういう先生方はコストが高いので、定年退職が近い先生が多い。
著書があったり、若い頃は活躍していた先生なのだろう。
下位の学校法人は、教員審査で指摘を受けると、どこかからそういう先生を引っ張ってこないといけない。
それでなんとか開学に間に合わせる。

ところが、その教員審査は開学して4年間経つと、一応完成年度ということになり、その後は大学に任される。
ここからが、いい加減になる。
講師から准教授になるときの審査も、教授に昇任するときの審査も、いい加減だ。
論文や著書の欄は極めて寂しい。
書いてあっても、殆どが紀要。
著書など、1冊のうち数ページだけ、というものもある。(初めてみた時は、わけが分からなかった)

ぼくのいたところでは、一時は学内紀要は査読付き、ということを言っていたが、実質的には紀要を発行しようとすると、論文数が足りなくなって発行できなかったりした。
書きます、と言っていても期限までに提出しない人もいる。
そんな論文集に査読などあるわけがない。
査読付き、というのは、論文20本載せる予定のところに、50本も100本も来るから査読をして掲載を許可するためにやるものだ。

そんな状態の大学がたくさんある。
それが日本の現実なのだ。

教員審査をもっと厳しくすれば、大学の教員になれない人たちがどんどん出てくる。
そうなると、若い研究者たちが就職しやすくなるはず。
若い人は、総じて教育にも熱心だ。

でも、学校法人で潰れるところも出てくるから、天下り先が減ることになり、文科省はそんなことはしない。

そういう役人と学校法人の癒着が、日本の教育をダメにしているのだと思う。



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