考えたこと2

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会社を辞めるとき
東洋経済の記事で、「会社の「辞めどき」は15のポイントで判断せよ」というのがあった。

ぼくは2004年の3月末で会社を辞めたが、その時の状況を考えると、この記事にある「辞めるとき」には当てはまらない。
辞めた一番の理由は、逆説的になるが、その時やっていた仕事が面白かったからだ。
2001年あたりから、あるシステムの導入を検討しはじめ、2004年の3月で導入が完了した、という状況だった。

ぼくは会社に入ったときは評価部署で実験室とテストコースで走り回り、6年目に設計に異動。
そこから15年OEMの設計をやって、最後の4年間を技術部の企画部署で過ごした。
その最後の4年間がこのシステム導入の仕事の期間だった。
何度か書いたが、主に4人でやった仕事。

与えられた仕事ではなく、自分でやりたいと言って、予算獲得からやった。
そのために、社外に見学に行ったり、コンピューターの勉強をしたり、いろいろ大変だった。
上の人は、ぼくがそんな仕事を始めるとは思っていなかったと思う。
どちらかというと、技術部をどうしていくか、というような企画をやらそうと思ったのではないか。
もちろん、その中期計画の作成もやったし、海外の情報を翻訳して回覧するというようなこともやった。

それまでの仕事は、どちらかというとわりと花形の仕事だったし、予算など考えたことがなかった。
自分が今まで青天井で使っていたということを、企画部署に行って初めて知った。
お金を取ってくるということが、いかに大事かということだ。
そのためには、そのシステムを入れたらどれだけの効果があって、投資額よりもリターンの方が大きいとか、現状の仕事量が大幅に減るとか、全体で見たら得になるとか、いろんなことを考えた。

最初は入れたほうがいいのは当たり前なのに、どうしてこんな説明をしないといけないのかとバカバカしくなったこともあった。
大きな額だったので、予算を取るためには大きな会議でプレゼンをして、役員の決済を仰ぐ。
まあ、アタリマエのことだが、ムダな仕事に思えたのは若気の至りだったと思う。

曲がりなりにも決済を取って、予算が出て、ようやく導入の運びになってうれしかったが、そこからが本番。
図面の仕事だったので、図面のユーザーである工場や金型の部署に説明に回り、ここでまた現状の改善ができる、という説明をしないといけない。
これもシンドい仕事で、いったい誰のためにやってんねん、と思うこともあった。
ユーザーはこれまでよりも早く図面を手に入れられるようになるから、仕事が早くできて、得になるに決まっているのに、現状からの変化を嫌がったりする。
仕事の慣性がいかに大きいかを思い知った。
とにかく、今やっている仕事を変えるという、そのことに対する抵抗がある。

でも、システムが立ち上がって効果が出始めると、本当にうれしかった。
利用者がどんどん増え、目に見えて今までのムダがどんどんなくなっていった。

結果的にこの仕事をやって、現場の仕事のおもしろさがわかったのだ。
だから、人・モノ・カネを動かすマネージメントの仕事より、現場の仕事を選ぼうと思った。
もう40代後半だったから、これから会社にいると、マネージメントの仕事が主になるからだ。

ちょうどその時、古い学校時代の友だちから、大学の話があった。
教育は会社でもやっていたし、若い技術者をどうやって育てるかということは課題だった。
それまでOn the Jobトレーニング一辺倒だったのをやめ、集合型の講義形式を取り入れたりした時期だった。

その中で、若い人たちが、本質的なところで仕事を理解していないということがわかった。
自分の仕事が全体の中で位置づけられていなくて、上から言われたことをやればいい、という人が増えてきたのだ。
派遣の女性に仕事のムダを指摘されて、それを若い担当者に言うと、「これはこうするように言われている」という始末。
そういう事例がいくつか続いて、これは企業の教育の問題ではなく、その前の段階からやらないといけないと思っていたところだった。

時期的に会社では仕事が増えて、どんどん縦割りになっていったこと、電話が減りメールが増えて職場の会話がなくなって、他の人の仕事を暗黙のうちに共有できなくなったこと、モノづくりがコンピューターになり、製図板がなくなってモノに関わる人が減ったことなど、いろんな要因が重なっていたのは事実。
それは効率化のためには仕方のないことだったろう。
でも、多くの会社が、「見える化」などといって、その状態を何とかしようとしていた時期。

それでぼくは清水の舞台から飛び降りた。
全く環境が違う大学というところに行った。

それがぼくが会社を辞めるときに考えたことだ。

それが良い選択だったのかどうかは、この世を去る時にわかるのだろう。



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