考えたこと2

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相馬に行く 2
仙台に着くと肌寒い。
半袖の人のほうが少ない。
さすが東北だ。
在来線に乗り換え、常磐線で亘理まで行く。
さすがに電車は北国仕様だ。
停車中もドアが開閉できるように、内側も外側もドアのところにスイッチがある。
学生時代、それを知らずに待っていたら、あとから来た学生に田舎者扱いされたことを思い出す。
あれはどこに行ったときだったろう?

亘理は「わたり」と読む。
グーグルで調べてわかった。
アナウンスで相馬に行くには亘理で代行バスに乗り換え、という。

東北本線から見る仙台は都会だ。
ぼくがよく知っている名前の量販店の店舗もたくさんある。
コンビニやスーパーも多い。
さすが仙台。

岩沼駅から常磐線に入る。
二十代の頃、毎月クルマで茨城県の土浦に行っていた。
たまに仕事で遅れ、電車で行くことがあったが、その時に上野から乗ったのが常磐線だった。
夜遅くなってもホームで酒を売っていて、電車がブレーキをかけると空いたビールの缶やワンカップが転がる。
常磐線沿線の人は酒が好きなんだなあと感心したのを思い出す。

その常磐線の終着駅がここなのか。

亘理に着いて、相馬行きのバスに乗る。
雨も降ってきて、用意していたフード付きのパーカーを着た。
震災から5年経ってもまだ常磐線は開通しない。
よほど激しくやられたんだろう。
今年の12月にようやく一部開通する。

バスは途中からほとんど信号がない国道6号線を延々と走る。
回りの田んぼには稲穂が垂れていた。
途中、新地駅に止まる。駅といっても立派な町役場の前の臨時のバス停。
ここも地方公務員が一番安定した仕事なんだろう。
群を抜いて立派な建物の役場を見て驚く。

いよいよ相馬が近づいてくる。
雲が低く垂れ込めて、あいにくの天気。やっぱり雨模様だ。
駅でN君に再会。
再会といっても、今年の正月には会っているのだが…。

早速クルマでNPOの事務所のある建物に行く。
ちょうど仮設住宅のプレハブみたいなものがそのNPOの事務所。
2階建ての2階の端で夏は暑く冬は寒いという。

事務所の下がNPOが経営する食堂で、隣が支援している高校生のボランティア団体という状況。
今日は下の食堂でNくんの奥さんが働く日とのことで、まず食堂で挨拶する。
奥さんから、まさかこんな仕事をするとは思っていなかったとか、止めてほしいと義母から言われたとか、そういう笑い話を聞く。
お母さんが息子を止めてくれ、という話は彼も初耳とのこと。
でも、一緒に来て新しい友だちもたくさん出来て、若い人たちとも話ができるし、楽しいと言われた。
女性は順応性が高い。

2階の事務所に上がると、二人若い人が仕事していた。
5つの机に大きなディスプレイとキーボードが並んでいる。
新しいコピー機もあり、来客用とおぼしきソファーもある。
後で聞くと、あのコピー機は俺が入れたんやとのこと。
複合機でスキャンもできるものらしい。
そんなことに詳しいやつではなかったが、知らぬ間に勉強したんだろう。

机の前の何箱かの段ボール箱にいっぱい書類があった。
こないだやった音楽のイベントのアンケートの整理。
4000枚ほどあるという。
その結果をエクセルに入力していると女性スタッフが言う。

一人は30代の女性、もう一人は新卒で今年入ったフレッシュマン。
女性の関東人らしいハキハキしたしゃべりで、Nくんが来る前はどんな人が来るんだろうかとビクビクしていたが、来てみたらコミュニケーション能力が高く、すぐに馴染んでよかった、というような話をされた。
彼らはすぐに遅い昼ごはんに下に降りていった。

NくんがこのNPOを選んだのは、まだ何をやるか固まっていなかったから。
とにかく相馬で活動するということだった。
一応、相馬で活動している企業のデーターベースを作り、実地調査をして、経済の活性化につなげたいということはあったが、それ以外にも復興住宅に置いてある自動販売機の世話や、音楽イベントのボランティアの案内や整理、いろんなイベントの実施、行政との顔つなぎ、仮設住宅の世話など何でもやるという。

実際、あとで相馬の観光協会に行ったが、そこの人とも顔見知りになっていた。

クルマにのって太平洋岸を見にいく。NPOのタウンエースを借りている。
震災前は砂州がきれいで漁業も盛んないい港だったが、五年経ってもまだ海岸には瓦礫が打ち上げられるという。
魚もいろいろ獲れたのだが、今は放射線量が高いものもあり、まだまだ震災前には戻らない。
放射線量の基準も含めて見直さないと、いけないのではないかと思う。
伝承鎮魂会館というところに行って、引き取り手のない写真や郵便等を見た。
住所も名前もわかっていて、それでも引き取り手のないハガキは家族みんなが亡くなったのか、それとも県外に移住してしまったのか…。
津波の威力は凄い。
改めて悲惨さを知った。

その後、NPOで関わっている仮設住宅を見に行く。
ほとんどはもう空き家だが、原発の関連で避難している浪江町の人たちはまだたくさんいた。
帰るに帰れない。
仮設住宅の前の雑草は伸び放題。
まだ人がいるところの仮設の草むしり等がボランティアの仕事になるとのこと。
彼のいる復興支援センターではそういう一般のボランティアの仕事の手配は受けないが、今回の音楽イベントではそういうこともやったらしい。
AKBの卒業生のナントカという女の子が仮設住宅の外壁に描いた絵を見せてくれた。
アジカンや山田ひさしというジョッキーも来たとのこと。
山田ひさしは、てっきり元阪急のアンダースローのピッチャーだと思ったらジョッキーだった。
彼の方が今や若者に詳しい。

その3に続く…
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