考えたこと2

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Death Education
死への準備教育、というのがDeath Educationという言葉の日本語訳。
アルフォンス・デーケンという日本にいるドイツ人の哲学者が以前から唱えている。

死への準備教育、というのはすなわち「生きることをどう学ぶか」ということでもあるという。
それはそうだろう。
死の準備とは、どう生を全うするか、ということになるからだ。

通常、死を迎えて、人間は6段階を経ると言われている。
否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容、期待と希望の6段階だ。
この6段階を全て経る人もいれば、途中で止まる人もいると思う。
それを助けて、5から6段階に行けるようにする仕事もある。
何とかセラピストというものだ。

幸運にもぼくはまだそういう事態には陥っていないが、もう十年以上前に亡くなったぼくの友だちがガン告知を受けた時に聞いた話を思い出す。
今は亡き彼に聞いた話だが、ちょっと胃の調子が悪いから精密検査に行ったら、何度か病院に通って胃の検査をやって、結果が出て医者のところに行った時、「あなたの胃ガンは、たちの悪いタイプで手の施しようがないから、これ以上何も出来ない。余命は3ヶ月程度」と言われたとのこと。
告知した医師は、その当時そういうふうに話すように教えられていたのか、それともそんな医師だったのか、それはわからない。
とりつく島がないような言い方だったらしい。

スキルス性の胃ガンだった。
結局、漢方などの治療を続けて、その半年後くらいに彼は亡くなった。
その医者の言ったことは概ね正しかったのだろう。

彼が亡くなった頃から比べると、だいぶ世の中は変わり、Death Educationも一般的になった。
サイコオンコロジーとか、死生学とかいろんな名前をつけて、多くの分野でやっている。

でも、日本では肝心の宗教の分野で、それが活発に行われているとは言い難い。
仏教は日本に多くの信者がいることになっているし、葬式といえば坊さんを呼ぶが、それでも日本人が仏教に基づいて死を考えているとは言えないだろう。
坊さんが来るのは、死んだ後だ。

アルフォンス・デーケンはキリスト教系の大学の名誉教授。
仏教系を名乗った大学は日本に20校くらいあるが、死について系統だった教育を唱えている人はいるんだろうか。

日本人は無宗教だとかいうけれど、人間はそんなに強くない。
死が近づいたら、何かに頼りたくなるはず。
そこに宗教が必要になる。
今の日本人がただただ生かされているような状態でも、生きることを選んでいるのは、宗教の不在が原因の一つだと思う。

欧米では、自分で食べることが生の証だという。
だから、自力で食べられなくなったらもう生きることはできない、というコンセンサスがある。
そのせいで平均寿命が短い。

そこには明確に生と死の線引きがある。
それは宗教が関係していると思う。
日本人は宗教を失って、死に向き合うのを避けてきたのではないか。

高齢化の時代を迎えて、今こそ宗教が復権しないといけないぞ。


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