考えたこと2

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詰め込み教育
「教育のポルポト派」という記事を読んだ。

ぼくはこの記事を書いた純丘先生のことは知らないが、まことに正論だと思う。
こないだの入試改革の時にも書いたが、今の入試が「知識偏重」だとは思わないし、知識をつけないからこそ、中堅以下の大学の学生のレベルが落ちているのだと思う。

この人がいう、「本当の意味での「勉強」をやってみたことのない連中には、丸暗記のオウム返しと、記憶や知識、発想力の重要な繋がりがわからないのかもしれない。オウム返しは、短期記憶で、言ってみればデスクトップ。これに対して、知識は、複雑にハイパーリンクしており、何かをデスクトップの俎上に上げると、そこから、とめどなくずるずるとさまざまな連想が引き出されてくる。そうやって引き出されたものは、短期記憶上でさらに新たに相互に結びついて、また仕舞い込まれる。この、記憶を織って知識を編む作業が「勉強」。
だから、むしろ丸暗記のオウム返しのような短期記憶の反復の中でこそ、我々は、勉強として、知識を編む。書取だの、暗記だの、ろくに集中もせず、上の空でやっていてもムダ、と、学校の先生は叱るが、まさにろくに集中もせずに上の空でやっているからこそ、いろいろなくだらない語呂合わせだの、イメージの妄想だの、いたずら書きだのが湧いてくる。こんなつまんない授業、早く終わんないかなぁ、なんていうぼやきの中で、科目さえも飛び越えて、大きな教養、将来の自分の夢が作られてくる。このぼんやりした世界の教養の中で、自分を含めて、日常や人生を考えるとき、それが生きる哲学になる。」ということは、イメージとしてわかる。

あー、こんなことやってどうなるんやろうとか、何でこんなこと覚えなあかんのかとか、無理やり覚えさせられた経験が、学校を出て役に立っていると思う。
残念ながらそんなことを考えるのは、今頃になってからだが、確かにそういう詰め込みは必要だと思うのだ。

インターネットの上に知識はいくらでもあるから、というのは本当だ。
でも、それをどうやって引き出すかということだ。
ある程度の知識を持っていないと、そこにたどり着けない。
知りたいことに関連していることをどれだけ覚えているか、ということだ。
その知識を詰め込まないと、知識の幅は広がらない。
想像の翼は、知識の量に比例する。

今の教育界の上層部の人たちの考えはわからない。
教育とは知識を詰め込むことだと思う。
それを偏重することは、教育そのものだ。

日本の代表的な河川の名前を覚えさせられたから、最上川の名前を知っている。
それが代表的な川だと覚えた。
それを知っているか、知らないかで、芭蕉の「五月雨をあつめてはやし最上川」という句を聞いた時の印象は違う。

勉強というのは、知識を詰め込むことだろう。
そうしておいたら、何かの時に、詰め込んだ知識がつながって、「あ、そうだったのか」という化学変化が起こる。
できるだけ広く、多くの知識を詰め込んだ人は、その化学変化もたくさん起こる。
その化学変化こそが勉強の目的ではないか。

その始まりは詰め込み教育だ。

それを否定したところに教育などというものはないと思う。

純丘先生バンザイ。


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