考えたこと2

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うまくいかなかったらどうするのか その3
2010年の5月に、以下のノートを書いた。
よく覚えていないが、この時点で、学科のトップに、改組をどうしたいか、という諮問をしていたのだと思う。
大学というところは何かとめんどくさい。
諮問というようなことをマジメな顔をしてやらないといけないのだ。
そんなことをやっているヒマがあったら、トップダウンでやったらいいのだ。
しかし、トップダウンできるほどの権力と責任、予算もなければ、やれるだけのアイデアをトップが持っていなかったりする。
とにかく時間がかかるのだ。
この大学の場合も、何度か諮問を繰り返して時間をムダにしていたのが経緯。

だいたい、この時点で片方の学部の2学科のうち一つの学科は定員割れを起こしていた。
3年ほど定員を割っていて、学部としては定員を確保していたが、学科としてはもうダメというレベルだった。
だから、潰すしかなかったのだ。

また、学部・学科の改組については、学校法人の意向も確認しないといけない。
それがうまくいっていなかったのだと思う。
学校法人と設置校の関係は難しい。
学校をいじるというのは、教育マターにもなると同時に、経営マターになるからだ。
法人はお金を握っているから、そこをどうやって納得させるか、というのがこの文書の主旨。
その関係がよくわかると思う。

大学が、志願者増ということを考えてはいけないのだ。
あくまで教育改革という視点でやらないといけない、ということに気がついて、この文書ができたのだと思う。

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学部の諮問について
今回の諮問については、会議でいろいろな意見が出ましたが、ここは一つ考えどころだと思います。
私もそうですが、おそらく●●も「志願者増」ということを念頭において、学部改組を考えておられたと思います。これが今までの失敗の原因だとわかりました。
なぜなら、「志願者が増える」かどうかについては、誰も答えがわからないからです。どうやったら、志願者が増えるか、わかっているなら、もうやっているはずです。
現在の学科で人が来ないのだが、どうやったらいいかわからないからこそ、現状のまま3年も続けてきたのだと思います。
したがって、この「志願者増」という目標を立てている限り、学校法人と軋轢が出ざるを得ません。「志願者増」について、意見は誰もが持っているし、誰が正しくて正しくないかわかりません。それこそ、何もしない、という手が最善手だと言い張ることも可能です。
また、この「志願者増」というのは経営マターでもあります。法人が当然口をはさむべき問題ととらえられます。この土俵で大学が勝負しても勝てるわけがありません。
それよりも、先日の一連の議論のなかで出た、「最高の教育プログラムを作れ」という事の方を大学がなすべきです。あまりにも当たり前すぎて、私も忘れていましたが、大学のまず考えるべきポイントは教育であり、それにつきると思います。
大学は「最高の教育プログラムを作れ」ば、志願者は増えるはず、というスタンスで臨むしかありません。その上で、志願者を増やすためにはこの名称を変えるべきとか、ここはちょっと変えて、目先を変えようとか、そういう小変更は可能です。
その、可能な範囲での変更が、経営マターだと思います。
まして、現在はユニバーサル化とゆとり世代で、大学教育を見直さなければならない時期に来ており、基準協会の基準も変更されるし、情報公開もそれに沿って進めていく時期に来ています。世の中の流れは教育改革の方向です。
だからこそ、ここで「最高の教育プログラムを作れ」ば認証評価も通るし、情報公開も進んでいきます。もちろん、2年来ずっと言い続けてきた「ゼミの活性化」も進めることができるでしょう。
ここは、一つ考え直して、やはり「最高の教育プログラムを作れ」という諮問に変更する、という英断を下すべきです。
その上で、それができれば、大学一丸となって法人の説得に当たれると思います。
「最高の教育プログラム」ができればこそ、自信を持って話ができますし、その土俵の中では大学が主導権を握ることができます。もちろん、「最高」であることの確認はみんなでやればよいと思います。これで念願の「ゼミの活性化」も進めることができます。
そして、志願者増の対策は、若干の修正でできる範囲でやればよいと思います。
何より、「最高の教育プログラム」という宣伝ができるのですから、志願者増につながらないはずがありません。(何をもって「最高の教育プログラム」というかは議論があるでしょうが)
あくまで、大学としてのスタンスは「志願者増」が主ではなく、教育であるべきです。そして、学士力を向上させ、就業力を上げるべきです。
何とか、方針変更をお願いします。私も反省します。

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大学というところは、事務がへりくだらないと前にすすまないところだ。
実際に実行するのは事務でも、できたら、やったのは先生、ということにしないといけない。
しかし、いくら事務だけ頑張っても、それは無理だ。
そのためには、まともな先生が何人かいないといけない。
ぼくらの場合は、いい先生一人に恵まれた。
その先生が、基本的な新しい学科に対する考え方を決めてくれたのだ。

この文書にあるように、多くの先生は、自分たちの専門の教育のことを考えず、高校生の人気のことばかり考えていた。
そう考えている限り、答えはややこしいことになる。
「高校生の人気」は経営マターになるからだ。
ウソでも、「教育」を旗頭にしないといけない。

そういうふうに、学科の改組を考えた。
もちろん、尊敬できる先生がいたからこそできたことだ。
カリキュラムや教育の制度設計の部分は、先生でないとできない。

ここで問題になるのが、潰れる学科の先生たち。
まさに、看板のかけ替えが必要になる。

当時、アメリカの副学長が来て、講習を受けたことがあるのだが、こういう看板のかけ替えはアメリカでは学部長がメインで行うようだった。
学部長が、学問の流れを見定め、新しい分野や科目を選んで、先生にやらせるのだ。
数年前からそういうことをやっていれば、看板のかけ替えは無理なくできる。
でも、残念ながらそういうところは日本では少ない。
だから、学科名は変わっても、教えていることは同じ、というところが多くなる。

しかし、そういうことを説得するには、市場調査が必要だ。
偏差値があるレベル以下の高校生は、こういうことに興味を持たないとか、こちらに興味を持つ、というようなことを調査しないといけない。
幸い、そういうことに長けたスタッフがいて、高校の進路指導の先生に来てもらって意見を聞いたり、系列の高校生の意見を聞いたりしていたので、何が悪いのかはわかっていた。
要は、潰すしかないということだ。

それでも、潰れる学科の先生たちは自分たちのやっている学問が大事だから、俗にいう「抵抗」がある。
そこのドロドロしたところは省くが、これは企業努力と同じことだと思う。
売れないから、売れるものに変える、という当たり前のことだ。
私立の大学で、それは経営上仕方がない。
それを継続しろというのは、ムリだろう。
教えられる科目が変わらないと、適応できないということになる。
実際には名前を変えて、やってることは一緒、というところもたくさんあるだろう。
こうなると、大学教育の志などあったものではない。
志願者が来れば、それでいいということになる。

ところで、教員が、ある科目を教えることができる、というのはどういうことか。
大学には教科書や学習指導要領がないから、ややこしい。
一部の私学にはあったほうがいいとぼくは思うが…。

難しい言葉で言うと、科目適合性という。
それには、その分野での研究業績が求められるのだ。
例えば、マクロ経済学を教えるためには、その分野での研究業績が必要になる。
今の文科省の考えでは、教える科目の分野の学会に所属し、その分野で査読付きの論文を、メジャーな学会誌等に出していること、これを「実績」という。
過去5年間で2本とか3本の論文があればOK。
これが公式見解だと思う。
しかし、これがチェックされるのは大学を作ったり、学部、学科をまったく新設するときだけだ。
それ以外はほぼ学校の判断だけでできる。
それが「届出」という仕組みだ。
ここでも、エライ先生方はごまかしをしない、という性善説が生きている。
マジメにやったら、この先生はこれを教えられるのか?というのが続出して、改組などできないところが続出するだろう。

しかし、多くの私学では実際そういう審査はなし崩しで行われ、出せば載るような紀要に論文を書いて出しても、OKになるところは多いだろう。
大多数の先生がそうなら、もう認めないと自分の存在が脅かされるからだ。
こうして、悪貨は良貨を駆逐していく。
そんな次第で、准教授や教授になれるというのは前に書いたとおり。

大学が増え、教員の数が増えすぎたのも一因だろう。
私学の数が約580。そのうち200校くらいは、厳しく評価できていないだろう。
わけの分からない学会の数も増えているが、査読付きの学会誌の数は限られているし、そこに発表できる人も限られている。
そのクオリティで「実績」というのなら、私学の多くの教員は「実績」がないと思う。
そのために、仲間うちで書いている「学部紀要」がたくさん発行され、各大学の図書館が送られて困っているのが実情。
それはなぜ発行されるかというと、教員の実績作りのためだ。
教員も2極化しているのが今の実情なのだろう。

ぼくはまともな研究ができない教員は、まともな教育もできないと思っている
マトモな先生は、ちゃんと研究し、ちゃんと教育している。
少なくとも、ぼくの見てきた先生はそうだった。

今日はこの辺で。
なかなか本題に行き着かないなあ。

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