考えたこと2

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大学教員の資格
大学の教員は教育と研究をしている。
一応、専門分野の研究をすることで、その成果を教育に生かすというのが建前になっている。
そのため、研究費というのが学校から支給される。

学校のよって色々と違いがあるが、私学では教員一人あたり、年間数十万という額になる。
使途は研究のための出張費、書籍の購入費など。
どうしても研究に必要ということが認められると、備品を買うのも認められることがある。

一方で、その研究成果はどうなっているかというと、これが甚だお寒い学校が多い。

一般に、大学の教員というのは、資格というものがない。
「教える」ということを教えられることもないし、何かを修めたらなれる、というものでもない。
要ははっきりしていないのだ。
これが今の大学の教員の質の低下を招いている元凶だと思う。

それでは、何をもって大学教員というのか、というと、文科省の大学設置基準の第十四条にこう書いてある。

『教授となることのできる者は、次の各号のいずれかに該当し、かつ、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とする。
一  博士の学位(外国において授与されたこれに相当する学位を含む。)を有し、研究上の業績を有する者
二  研究上の業績が前号の者に準ずると認められる者
三  学位規則 (昭和二十八年文部省令第九号)第五条の二 に規定する専門職学位(外国において授与されたこれに相当する学位を含む。)を有し、当該専門職学位の専攻分野に関する実務上の業績を有する者
四  大学において教授、准教授又は専任の講師の経歴(外国におけるこれらに相当する教員としての経歴を含む。)のある者
五  芸術、体育等については、特殊な技能に秀でていると認められる者
六  専攻分野について、特に優れた知識及び経験を有すると認められる者』

これを見ると、今は第一には博士号を持っていること、ということになる。
それはそうだろう。
博士号を取得していれば、少なくとも博士論文という、ある程度まともな論文を一本は書いている、ということになる。
まして、1万8千人ほどが博士号を取って、まともな職につけずに困っているのだから。
しかし、これも小保方さんの騒動でかなり怪しいことになってしまった。
コピペが当たり前の博士など、世界で通用するわけがない。
それもこれも、政府が大学院博士課程の定数を増やしたことが原因なのだが。
まあ、今の偏差値50以下の大学なら通用するのかもしれない。

第二には、博士並みの研究業績を持っているもの、ということになる。
これも、少なくとも一本はちゃんとした論文を書いていること、ということだ。

しかし、「ちゃんとした論文」とは一体何かということになる。
これは、著者以外の専門家が査読をした、ということだろう。
査読とは何かというと、ウィキペディアによると「研究者仲間や同分野の専門家による評価や検証のことである。研究者が学術雑誌に投稿した論文が掲載される前に行われる。」とある。
要は論文の品質保証のことだ。

普通の博士論文には、主査、副査という二人の査読者がいる。
博士論文が出るまでには、何度か主査の先生からダメ出しをされ、そのうえ副査の先生のOKも必要だ。
ちゃんとしたところでは、指導教官と主査は違う人がやることになっているが、指導教官が主査の場合もある。それでも、博士論文は国会図書館に提出され、だれでも閲覧できるようになるわけだから、そんなに恥ずかしいものは出しにくい。
その上、後でその論文がオカシイということになった場合は、査読者の責任にもなるから、いい加減なことは普通はできない。

それをちゃんとしていなかったのが、小保方さんの博士論文ということになる。
もちろん、小保方さんは悪いが、数ページにわたるコピペを見逃した博士論文の主査の責任は重い。
ちゃんと論文を読んでいれば、コピペかどうかはわかるはずだ。(おそらく報酬も学校から出ているはず)

要は、その論文を評価することができる専門知識を持った人が読んで、ちゃんとスジが通っているか、その上でこの論文は出す価値があるか、ということを保証するプロセスが査読。
その査読を経ていることが、ちゃんとした論文ということだ。

第三には実務上問題ない、というほど実務実績がある人。
第四には経験がすでにある人。
第五には芸術や体育分野の教員の特例。
第六にはその他の分野の教員の特例。

つまりは何らかの実務で実績を積んで大学教員になるもの(主に芸術や体育系)を除けば、大学教員になるためには研究業績が必要、ということになる。
もちろん、研究業績と呼べるのは査読を経た論文だ。

したがって、大学の教員にとっては、研究業績が大事であり、だから、研究費が大事だということがわかっていただけたと思う。

ここから、ぼくの研究費に対する考えとその結果を書こうと思っているのだが、ちょっと前置きが長くなった。
ということで、また別途。



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