![]() |
2013.06.23 Sunday
ライン疲れ
若い人の間ではラインというのが流行っているらしい。
ラインというのは、スマートフォンのアプリ。 画面の左右に吹き出しのようなものが出て、そこにメッセージが入る。 いろんなメンバーでのラインを作れるらしい。 要は仲間別にラインを作ることができる。 学校のサークルのラインがあり、クラスの友だちのラインがあり、…という具合。 またこのラインは電話番号を使うので、メールと違ってアドレスを変えたのでつながらない、という事もない。 キャリアを変えても、電話番号は持っていけるからだ。 メールは出してしまえば、見たかどうかはわからない。 しかし、ラインではメールと違って、相手が読んだか読んでないかがわかる。 それが、見た方にも見られた方にもプレッシャーになる。 ラインに書き込んだ方は、自分のメッセージが読まれたことがわかり、返事がまだだということがわかる。 ラインを見た方は、それがわかっているので、見たら返事を出さないとイケナイという気分になる。 それがライン疲れという症状になるらしい。 要はメッセージを見たら返事を出さないといけない、ということだ。 しかし、たわいもないメッセージで、無視したっていいと思うメッセージにも、返事をしないといけないと思うと、疲れる。 「今日は○○に来ています」 「それがどうした」 「今日の晩ご飯は○○」 「あ、そう」 というようなやりとりは、しにくいらしい。 相手が傷ついたり、怒ったりしたら困るからだ。 そんなに疲れるのなら、ラインをやめたらいいと思うのだが、そうもいかないらしい。 やめること自体がストレスになるのだろう。 「大学生750人を対象にジャストシステムが実施した調査で、対象の7割が「既読が表示されると、返事をしないと相手に悪いと感じる。」対象の4割が「LINEトーク利用で疲れを感じることがある。」このような結果が出たそうです。」という記事があった。 フェイスブックとかラインとか、ソーシャルネットワークというようなものが流行っているが、こんな所に日常の下らない事を書くことの弊害は、もっと取り上げられてもいいと思う。 池田晶子が「考える日々3」で書いている。 「先日のニュースなど、近所でおいしいキムチを作るおじさんがいるので、このことを全国の皆さんに是非とも知らせてあげたい。で、その情報をインターネットテレビなるものに作成して流している人のことを、これまたテレビで放映しているわけである。 そうまでして、そうするべきことなのだろうか。自分たちがいかに無内容なことをしているかということを、今やそこにいる誰もがわからなくなっているのだ。これは驚くべきことである。 情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ。当然といえば当然である。伝えるべき内容を発達させずに、伝える手段ばかりを発達させてきたからである。そもそも「何を」伝えたいのかという然るべき問いを、なぜ所有せずにいられるのか、それが私には不可解である。「便利になる」、大変けっこうなことである。しかし、便利になるほど人が馬鹿になるのは、どういうわけなのだろう。」 状況はもっとひどい。 キムチを作るおじさんどころの話ではない。 そうまでして、そうするべきことなのだろうか…。 |
![]() |