考えたこと2

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デミング博士
朝のドラマを見ていると、青森からの集団就職の学生が出てくる。
昭和30年代〜40年代のことだ。
彼らは、田舎では食えないから、口減らしのために家を出て、就職した。
上野の駅で、はい、おまえはこっち、おまえはあそこ、というような周旋屋がいたらしい。
そんなふうに、将来を決められた若者がいた。
何割の集団就職者が定着したのだろうか。

でも、実際そんなふうにして、職を得た人たちが、昭和40年代〜50年代に日本の高度成長を支えてきた。
立派だと思う。
日本の産業は、品質保証がすごかった。
トヨタやホンダの車は、とにかく故障しないというのが売りだった。
広いアメリカ大陸でエンストしたら、死ぬこともある。
だから、故障をしてはいけない。

それを支えていたのは、そういう現場の人たち。
QC(クオリティ・コントロール)の7つ道具を使って、品質を管理する、QCサークルというような工場内の組織ができた。
その当時の現場の人たちは、暗算もでき、統計も理解し、平均や分散という概念も理解して、品質を管理することができた。
職場から次々とQCの講習会に出席し、そういう知識を身につけたメンバーが増え、そして現場で創意工夫提案活動をして、どんどんラインを改善した。

デミング博士、という人がいる。
Wikipediaによると、「第二次世界大戦時にアメリカの生産性向上に尽力したが、それよりも日本で行った業績でよく知られている。彼は1950年から日本の企業経営者に、設計/製品品質/製品検査/販売などを強化する方法を伝授していった。彼が伝授した方法は、分散分析や仮説検定といった統計学的手法の応用などである。デミングは、日本がイノベーティブな高品質製品を製造し経済力を高めるのに多大な貢献をした。日本の製造業やビジネスに最も影響を与えた外国人であった。このため、日本では以前から英雄的な捉え方をされていたが、アメリカでの認知は彼が死去したころやっと広まり始めたところであった。」「日本の製造業者はデミングの技法を広く適用し、これまでにない品質と生産性の向上を達成した。品質向上とそれに伴うコスト削減により、日本製品が世界を席捲することとなった。1950年の講演は本としても発売されたが、デミングはその印税の受け取りを辞退した。そこで日科技連はデミングの友情と業績を永く記念するため、その印税を基金とし、デミング賞を創設した。」とある。

本国よりも日本で有名な人だったらしい。
日本の恩人と言っても過言ではない。
歴代のデミング賞の受賞をみると、そうそうたる企業が並んでいる。(最近は海外ばかりだが…)

デミング博士を有名にしたのは、日本企業の躍進だった。
ぼくのいた会社でも、そういう人たちがいた。
現場の力だ。

そしてついに本国でも有名になった。

こういうのを見ていると、科学技術に国境はない、ということがよくわかる。

そういう歴史を知っている人がだんだん減ってきた。

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