考えたこと2

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聖書の組織論
新約聖書の中のパウロによるキリストの福音書のコリント人への手紙第12章に次の記述がある。


実際は、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけでもない。
また、もし耳が、わたしは目でないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけでもない。
もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。


これはキリスト教の組織に関する考え方を表している、と曽野綾子が言っていた。

確かに、この文章をまとめると、One for all, all for one.というラグビーのチームワークを表す言葉の意味になるのだろう。

しかし、回りくどいと思う。

聖書というのは、なかなか日本人には理解できない。
それは荒野というなじみのない土地で生まれたものだから、という説明は説得力がある。

日本には四季があり、厳しい季節もあるが、良い季節もある。
キリスト教が生まれた土地では、自然は敵だった。
しかし、日本では自然は敵ではない。
恵みもあれば、厳しい時もある、そんな存在だろう。

日本人は神道の神を信じている。
いたるところに神はいる。
そして、組織論など考えない。

そんな気がする。

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