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2010.11.03 Wednesday
臓器移植
臓器の移植が進んでいるらしい。、
法律が改正され、「2010年7月17日からは、本人の臓器提供の意思が不明な場合にも、家族の承諾があれば臓器提供が可能となる。これにより15歳未満の者から脳死下での臓器提供も可能になる」ということになったからだ。 アメリカの病院のドラマをみると、最新鋭の病院はすごいIT化だ。 カンファレンスルームに大きなボードがあって、コンピューターでの検査結果やカルテが、画面に指でジェスチャーすることによって出てくる。 移植のネットワークも整っている。 リストの優先順位も指定され、見つかるとすぐに連絡がある。 コーディネーターがいて、移植についての会議もある。 移植専門の連絡員もいる。 どの行政単位でやっているのかわからないが、ヘリポートもあって、遠いところまででも飛んでいく。 もちろん、国民皆保険の国ではないので、加入している保険によって、移植の条件も違うのだろう。 そういう意味では日本よりもややこしい。 それをコンピューターで管理している。 テレビドラマだから、誇張や作ったところもあるかもしれないが、しかし移植大国アメリカの現状の一端はそんなものだろうと思う。 移植というのは、そのシステムを維持するのにお金がかかるのだ。 ネットワークの構築、移植のための倫理コードの作成、優先順位のつけ方、専門家の養成…。 この専門家は医者ではない。 移植に関しては、医者以外の人をどう育て、どんなシステムを作るのか、ということが肝心だろう。 臓器の移植自体は技術の問題であり、 技術が進めば解決可能だろう。 しかし、移植の条件や順位の決め方、運用のしかた、ネットワークの構築については人の問題だ。 人間の臓器を取り出すということは、殺人と紙一重の行為。 完全に死んでから、取り出せるものはよい。 完全な死とは、どういう状態か、という点がすでに問題になるが…。 生きている間に取り出さないと意味がないものもあるだろう。 そういうものが、日本人にハンドリングできるのだろうか。 これは医学の問題ではなく、倫理学や哲学の問題になる。 宗教も絡むだろう。 死とは何か、というところで国民の合意を得なければならない。 また、移植医療が進むと、患者が他人の死を望むようになる、という問題もある。 あと数日でもう死ぬというときに、移植用の臓器が見つかるだろうか…、それが見つかってほしいと思うのは人情だ。 それはいいことだろうか。 移植に関わる人たちには高い倫理観が必要だ。 特に順位をきめる診断を下す医師はそうだろう。 今の医師にそのような教育ができるのだろうか。 移植のドラマを見ていて、そう思う。 これは難しい問題だ。 |
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