考えたこと2

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中間言語
ずっと、気になっていた言葉がある。
「中間言語」という言葉だ。

亡くなった山本七平がどこかに書いていたのだが、すごく面白かったということと、その言葉だけがやけに頭に残っていて、ここ数年ひっかかったまま過ごしていた。

今日の昼、ある人と話していて、「中間言語」の話になり、どうしてももう一度読みたくなって本を探し回った。
たしか、通勤電車の中で読んだから、文庫本であることは間違いない。
本棚をひっくり返して、手当たり次第にパラパラとめくっていたら見つかった。

「あたりまえ」の研究 という本。
短い評論集だが、その中の「小説の効用」というところに出ている。

どういうワケか、「ロシアのコカコーラ」というフレーズが「中間言語」とセットになって記憶されていたのだが、これはマチガイだった。
中に、ソビエト、モスクワオリンピック、ソルジェニーツィンという言葉は出てくるのだが、「ロシアのコカコーラ」は出てこなかった。
何でその二つがセットになったのかは、わからない。

何で「中間言語」という言葉が話題になったかというと、本を読まないとどうなるのか?ということを話していたからだ。

この山本七平の論評は短い作品だが、すごく奥が深いものだと思う。

中間言語について書いてある部分を、抜粋します。わかりにくいかな…。


 われわれの言葉には対外言語と対内言語がある。外部に向かって何かを話すのも言葉なら、自らの内で考え、自己と討議し、自己の考えを検証して一つの結論を出すのも言葉である。では小説を読むのはどちらに入るのか。その言葉は自分の外の活字から出て来るという意味では、外部にある言葉であって自己の内部にある言葉ではない。しかしそれを読むことは、自己の考えを外部に向かって発表することではないから、対外言語ではない。しかし、その作品に何らかの感慨を抱き、感想を持つことは、たとえ口にしなくても外部のものへの言葉だから、対内言語ともいえない。小説が応答してくれるなら、それに向かっていいたい言葉は、多くの人にあるであろう。いわば、自己の世界が外部の内面的世界と直接に接触しているわけである。すばらしい小説の中に没頭してしまうというが、それは読者がそう感ずるのであって、小説の方がその人の世界に入り込んできて、その人の世界を完全に占拠しているのがその状態である。そのときには小説はその人の対内言語になっている。私はこれを一種の中間言語と考えているわけである。そして人間は、これによって、自分の世界と他の世界との間を往復でき、いわば夢からさめたように、小説の世界から自己の世界に戻ってくるわけである。
 そしてそれによって人は、自分と違う世界がこの世の中にあることを知り、それを知ってはじめて自己の世界を再把握でき、サルにも電算機にもならずにすむ。われわれが他の外面的・内面的世界を知る手段は、ごく最近まで専ら小説だった。それが自国の歴史的過去であれ、他国のある時代であれ、また双方の現代であれ、多くの人は小説でそれを知った。と同時にすばらしい小説は、ある時代を、あらゆる記憶にもまして鮮明に見せてくれた……


中間言語がなければ、自分の経験し得た範囲内のものしか、自分の中に想像することができないというのが、ぼくの理解だった。
結局はそういうことなんだと思う。

そして、それはすごく大事なことであり、テレビやマンガでは得られないものだ。

このことは、もう少し考えてみたいと思っている。



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