考えたこと2

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日本語ワープロ
日本語のワードプロセッサは、1980年代にまず専用機から始まった。

文豪とか、トスワードとか、オアシスとか、書院、カシオワード…そんな名前の機械だった。初期のものはタイプライターみたいな形をしていて、液晶画面が小さく、2行くらいしか表示できなかった。今から思えば、よくあんな機械を使っていたものだと思う。
プリンタ一体型で、本当にタイプライターのように紙を入れて、印刷していた。

その後、液晶画面が大きくなって、日本語変換の効率もよくなって、どんどん進化していった。

しかし、90年代に入って、パソコンの普及とともに、ワープロソフトというのが出てきた。
なんといってもすごかったのは、一太郎の登場だった。
今でも覚えているのは、「あめりか」と入力して変換すると、「アメリカ」になったことだ。
今でこそ当たり前だが、外来語をひらがな入力でカタカナに変換する、というアイデアは一太郎で知った。

これが呼び水となって、ワープロ専用機はパソコンのワープロソフトに駆逐されていくことになる。

90年代の終わりになって、アメリカのマイクロソフト社のワープロソフトであるWordというのが入ってきた。
当初、一太郎と拮抗していたが、今ではWordが圧倒的に多くなった。でも、一太郎の根強いファンも多い。

Wordと一太郎の一番の違いは、書くということの文化の違いにある。

日本語は基本的に紙に鉛筆で書く。だから、書きたいところから、いきなり書き始められる。
紙の真ん中にいきなり字を書くことができるのだ。

しかし、西洋では、書くということはタイプライターで打つ場合が多いのだろう。
だから、Wordではいきなり紙の真ん中から書き始めるということができない。
紙が決まれば、書き始めの位置は決まっているのだ。
真ん中から書きたければ、書きたい位置まで改行をして、それから書き始め泣ければならない。

90年代後半に会社でWordを使い始めたとき、慣れるまですごくうっとうしかった。紙と鉛筆の世界から、タイプの世界に頭を切り換えなければならないからだ。

しかし、しばらくすると、Wordの考え方に慣れてきて、それなりに合理的だと思えるようになった。
でも、そこでつまずくと、一太郎からWordに乗り換えるのはしんどくなる。
だから、一太郎のファンがいまだにいるのだろう。

おそらく、ソフトを作る上で、紙のどこからでも書き始めることができる、という制約はすごく大きく、一太郎はすごい苦労をして作られていると思う。
今日、最新版の一太郎を見たが、やはり紙のどこからでも書くことができるようになっている。
ひょっとしたら、この部分をあきらめれば、一太郎のファンが逃げてしまうということがわかっているのかもしれない。

書くということに関する文化の差が、ワープロソフトの設計の基本の部分にかかわっているというのは、おもしろいことだ。
そして、日本では紙と鉛筆の文化で培ってきたワープロソフトが今や少数派になってしまったということも、おもしろいことだと思う。
それは、日本人は、異文化への適応性が高いということを表しているのかもしれない。

中国で生まれたワープロソフトというのは無いのだろうか?
それは、やはり一太郎のように、紙のどこからでも書き始めることができるのだろうか…。

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