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2006.10.03 Tuesday
100歳
小学校1年の夏休みに祖父が亡くなった。
この日のことはよく覚えている。 数年前に母から僕が小学校の頃に残していたものをもらった。 その中に夏休みの絵日記があり、そこにも亡くなったことが書いてあった。 その日は夏の暑い日で、通夜の夜に僕と従兄弟たちが雑魚寝のようにして寝ているところを、母や伯母がうちわであおいでくれていた場面が目に焼きついている。 葬儀の日には、祖母が大きな声で祖父に呼びかけていた。 亡くなった祖父は60歳くらいだったと思う。人力飛行機の設計図を描いたりしていた、一風変わった人だったらしい。 胃ガンだった。 祖父が亡くなって後、祖母は信心深く、いつも自分でお経をあげていた。 「なんみょうほうれんげきょう」という言葉が、僕が最初に接したお経だった。 そんな祖母だったから、法事はきっちりとやった。 祖父も祖母も家族が多く、そんな日は、祖母の家の畳の部屋の襖を取っ払って、たくさんの人が来た。 ちらし寿司や、水につけて冷やしたスイカが食べられるし、あとで仏さんのお下がりはもらえるし、全く意味はわかっていなかったが、法事は楽しいものだった。 それが、今から40年以上前のこと。 もちろんクーラーもなく、白黒テレビがやっと家に来たところで、そこここに非舗装の道が残っていた…という時代だった。 それから四十数年生きて、9月30日に祖母が亡くなった。 100歳と半年生きたのだ。 生まれたのが1906年。明治時代である。 もちろん、炊飯器もなく、冷蔵庫もなく、洗濯機もなく、ラジオ放送すら始まっていなかった時代だ。 日露戦争が終わってすぐに生まれたことになる。 太平洋戦争の時代を生きぬいて、終戦の頃が働きざかりだったと思う。 僕が生まれたときには、まだ51歳。 いずこもそうだろうが、孫にはやさしい人だった。 従姉が来たときには、泊めてもらいにいき、遊んでもらったり、夏の終わりの地蔵盆のお菓子をくれたりした。 小学校の頃の思い出が多い。 80歳を過ぎても元気で、遺影はその頃の写真だった。 僕が田辺聖子を読むようになったのも、祖母のために母が買ってきた本を、もらって帰ったのが縁だ。 残念ながら、晩年は目が見えなくなり、本を読むことはできなかったが…。 15歳年下の弟を残して、他の兄弟はみな亡くなり、祖母は逝った。 「親代わりだった…」と涙ぐむ叔父さんを見て、もらい泣きしてしまった。 100年の歴史を見た人だ…とあらためて今日思った。 明治・大正・昭和・平成の四つの時代…第二次大戦も、戦後の苦しいときも、高度成長も、バブル崩壊も、全て見ていた。 祖母がいなければ、母も僕もいなかったのだ。そんなことを思った。1000年、2000年、3000年、数万年、それよりももっと前から人類の歴史は続いている。その系図の中をずっとたどっていくことを想像する。 その中の一人の人間でも欠けたら、僕は存在しない。 数十人ほどさかのぼれば、もう平安時代になる。日本の人口は700万人ほどしかいなかったらしい。 その時代のだれかと、僕はつながっている…つながっているからこそ、存在する。 宇宙の時間から思えば、ほんの一瞬だが、その中に歴史があり、自分が今存在しているし、いずれなくなるのだ。 100年は長かっただろうと思う。 感謝と慰労の気持ちで合掌した。 |
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