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2006.09.03 Sunday
貸し出しカード
僕らが中学・高校の時代は、冷戦の時代だった。
中国・ソ連(もう無くなったが)は社会主義の国で、日本とは異なる陣営の国だった。 世界中が、西と東、右と左、資本主義と社会主義に分かれて、どちらも自分たちの陣営を強化しようと思っていた。 だから、世の中には軸があった。 資本主義と社会主義、つまり、日本では体制と反体制という軸だ。 ティーンエージャーの時代は、わけもなく何かに反発したい時代だから、それと結びついて、その頃(昭和40年代〜50年代)の若者の多くは反体制に走ったと思う。 全共闘、赤ヘル、安保反対、というような、今では死語になってしまった言葉が普通に使われていた。 僕らの一つ上の世代(団塊の世代)は、まさに全共闘世代であり、多くの人が安保反対のデモに参加したり、実際に参加はしなくてもそのシンパだったりしたんだろう。 アメリカは悪であり、ソ連や中華人民共和国は良い国で(もちろん、北朝鮮も良い国だった)、毛沢東は素晴らしい指導者で、マルクス主義は絶対正しかったりした。 忘れている人も多いかもしれないが、一部の新聞は意図的に反体制の記事を書いていたし、本当にそれが素晴らしいと思ったりしたのだ。 新聞に、毛沢東は素晴らしいというような意味のことは書いてあったし、ソ連は素晴らしい国というような意味のことも書いてあった。 本当ですよね。 (余談になるが、後日ワイルドスワンという小説で、文化大革命という毛沢東の政治がいかにひどいものだったかを知って、それ以降、新聞は信用しないことにした。大体、署名のない記事ばかり書いている日本の新聞はオカシイのだ。) 中学の社会の先生は、アメリカがバカスカ爆弾を落とした、という非難を授業でしたし、高校の政治経済の先生は、ソ連の選挙は素晴らしい選挙だ(共産党一党支配だから…)と授業で話していた。(ちょうど中学の頃は、ベトナム戦争の最中だったという事情はあるが、アメリカを非難するなら、そんんな戦争を始めた日本も問題にしないといけないだろう) 前置きが長くなったが、そんなこんなで、僕は左翼シンパだった。 「革命」という言葉に惹かれたし、わけもなく反体制という言葉が好きだった。 石川達三や太宰治、坂口安吾、亀井勝一郎、武者小路実篤などを読んでいた。 そのうち、社会主義を通り過ぎて、無政府主義という考えがあることを知った。 なるほど、政府が無くなれば、体制もクソもない…これだ、ということになった(何がこれなのかわからないが…) カタカナではアナキズムと言って、ロシアのクロポトキンという人が有名だということもわかった。 日本のアナキストというと、大杉栄という人がいる。 最期は憲兵に殺された人だ。 読んでみようと思っても、安い文庫本がなかった。 仕方なく、高校の図書館に行って探したら、見つかった。 きれいな単行本だった。貸し出しカードを見ると、誰も借りていない。 いざ借りるとなると、何となく恐ろしくなったが、まあいいや、という思いで借りて帰って読んだ。(高校時代に図書館で借りた本は、この1冊だけだ) 全部を読んだ覚えはない。 とばし読みして、何となく恐ろしいことが書いてあるような気がした。 言葉の力というヤツだ。それを読んだからといって、何かを起こすことはできないのに、読むだけで力を得るような気がした。 結局、腰が引けてしまって、無政府主義というものが恐くなってしまった。 早々に本を返しに行った。 返した後、しばらくして図書館に行き、本を見たが、やっぱり誰も借りてはいない…。 もう時効だから許してもらえると思うので、書いておく。 何となく、この本を僕が借りたという証拠を残しておくのが恐くなり、貸し出しカードを抜いて、こっそり持って帰って、捨てたのだ。 その後、あの本を誰かが借りたかどうか…。 それから、少し左翼熱が冷めた。 相変わらず、反体制だったし、今のままではダメだと漠然と思っていたが、革命などという言葉からは遠ざかった。 読む本も、司馬遼太郎や吉行淳之介、柴田錬三郎、筒井康隆、光瀬龍などの作家に鞍替えしていった。 こっそり日和見したのだ。 1978年だったと思う。その後、誰かがあの本を借りようとしたら、カードがないことに気づいただろう。 司書の人の手を煩わせたハズだ。 でも、きっと僕の後にあの本を借りようとする人はいなかっただろう…と自分では思っている。 もう、そういう時代ではなかったのだ。 そして、きっとあの本は文化祭か何かのイベントで、古本として処分され、今はもうなくなっているに違いない。 |
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