考えたこと2

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商社
前に書いたが、父は繊維関係の商社に勤めていた。

今でもそうだが、日本の外務省はあまり情報収集が得意でなく、海外で何かあると商社などの企業からの情報の方が確かで早い。
父は海外勤務などしたことがなかったが、ぼくが小学校の頃から、いつもそれを自慢していた。
昭和40年代はまだ日本の繊維産業が盛んで、価格と品質で競争力もあり、世界に出て行っていた時代だった。

海外で何か事件があると、ニュースで現地の情報を伝えていたが、いつもそれを見ながら「あれは日本の商社からの情報だ。日本の商社員は世界中で活動している」というようなことを得意げに言っていた。

子供心に、日本の商社員はスゴイ…と思いこんでいて、意味もわからず「商社」という言葉はぼくの語彙になった。

その後、繊維商社はバタバタと落ち目になっていく。
価格競争力がなくなり、財閥系の総合商社以外は、経営が苦しくなっていったのだ。
父の会社も落ち目の一つで、住宅ブームに乗ろうとして失敗し、事実上の経営破綻になった。
繊維メーカーと銀行から経営陣が乗り込んできて、救済されたものの、父にとっては面白くなかったに違いない。

ぼくが高校の時に、出不精の父がめずらしく一人で知床に旅行に行ったが、あれは何かのふんぎりをつけるためのものだったのではないかと思っている。
その頃からはあまり商社の自慢話は聞かなくなった。

ずっと国内勤務で商社員とはいえ海外に出たことがなかった父だが、パキスタンに現地法人の建て直しか何かの仕事で数ヶ月行ったことがある。
ちょうどぼくは反抗期だった頃で、父がいなくてちょうどよかった…と思う。
いなかった頃のことはあまり覚えていない。

当時のパキスタンはまだまだ貧しく(今もそうだが…)、水道水は飲めず、セブンアップ(なぜか、この清涼飲料水が気に入ったらしい)ばかり飲んでいたという話や、近くの町に映画を見に行こうとすると、たくさんの乞食がお金をせがんできて困ったという話など、帰ってきてから聞いた覚えがあるが、あまりよい思い出ではなかったようだ。

亡くなる数年前に、パキスタンのことを聞いたら、「二度と行きたくないなあ」という返事だった。
海外のどこでも出ていって、活躍している商社員…を自慢していたのに、やっぱり出不精の父だった。

ラクダの皮で作ったというスタンドや、象牙を埋め込んだ木の箱など、その時の土産はまだ残っている。
象牙の幾何学模様の入った木の箱は、ギターのピックや小物を入れる箱として今も使っているが、あれがパキスタンのものだということなど、うちの子どもたちは知る由もないだろうなあ…。

だから、今でも「商社」というと特別の響きがある。

商社員は世界を飛び回り、日本のために尽くしている…という刷り込みがあるのだ。


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