考えたこと2

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いちご白書をもう一度
子どもと大人の違いは何だろう。

酒が飲めるとか、タバコが吸えるとか、参政権があるとか、外面的なものはいくつかある。
しかし、問題は内面的なものだ。

ぼくの年になって、最近の若い大人を見ていると、何となく子供っぽく見えてしまう。
それは、自分が年をとったということもあるが、それを差し引いても子供っぽく見えるような気がする。
というか、一部の人は大人になろうとしていないような気がするし、それが大人になることを拒否しているわけでもなく、単に子どもの延長でいるような気がするのだ。

エラそうな事を言っているような気もするが、まあ、55歳といえば充分にオッサンだし、それくらいのことは言わせてもらってもいいと思う。

もちろん、ぼくらの時代よりももっと真面目に考えている若者もいるし、時代が生きにくくなっているという外部要因もあるし、単純に比較はできない事を断っておきたい。
要は立派な若い人はいるということだ。

一方で、ぼくが思うのは、大人になる、ということの意味だ。

大人になる、という事について、青春時代は考えていない。
自分の問題で手一杯だから。
でも、いざ社会に出るときになって、というか、社会に出る、ということは前提としてあって、その上で大人になることの意味があったと思う。
つまり、ある年齢になったら、社会に出る、ということは自明のことであり、それについては疑問を持たなかった。要は当たり前だったのだ。
それは、青春と別れることであり、自由気ままな生活は終わるということであり、もっと言えば税金を納めて大人になる、ということだったと思う。
もちろん、そんなことは具体的には考えなかったが、要はそんな全てをひっくるめて、社会に出て大人になる、というイベントがあった。

だから、ユーミンが書いた「いちご白書をもう一度」という歌が流行った。

 ぼくは無精髭と髪を伸ばして
 学生集会へも時々でかけた
 就職が決まって髪を切ってきたとき
 もう若くないさと君にいいわけしたね

ちょうどぼくらが社会人になるときに、この歌が出て、ヒットした。
バンバンの唯一といっていい全国ヒット。

この歌の感覚はもう今の若い人にはわからない。
まず、学生集会の意味がわからないだろう。
学生運動というと、中間体操のことを思う世代だから。

そして、就職が決まって髪を切ってきたとき、「もう若くないさ」、と君に「いいわけ」をする。
なんで「いいわけ」をするのか、それがわからないだろう。

大人になることは、一種の「負け戦」だった。
学生集会に時々出かけていた若者はそんなに多くない。
でも、心情的にはそういう思いを持った若者は多かった。
そして、この歌に歌われている「ぼく」は、そういう若者も含んでいる。
そういう若者だから、「いいわけ」したのだ。

もう時が来たから、社会に出て大人になる、それは仕方のないことだ、という気持ちがあった。
それは、会社の歯車の一つになって、上の言うことを聞いて、一生懸命働く、ということをぼくはしてしまう、ということだ。それを「君」に「いいわけ」したのだ。

大人になることの意味、はこの「負け戦」をすることだった。

負け戦をして、あきらめて大人になる。
そういう感覚があった。

それがいいことか、悪いことかはわからない。

でも、時は過ぎて、そういう時代は終わった。
今は「世界で一つだけの花」の時代になった。
社会に出ても、自分は「世界に一つだけの花」だ。

 そうさぼくらは世界に一つだけの花
 一人ひとり違う種を持つ
 その花を咲かせることに
 一生懸命になればいい

だから、「負け戦」をする必要がない。

それがいいことか、悪いことかはわからない。

でも、そんなふうに大人になろうとする人は、「負け戦」をしないから、大人になることを拒否するわけでもなく、単に子どもの延長で大人になってしまう。

どこの文化でも、社会に出るときには心理的な葛藤はあるはずだ。
それを何らかの儀式で乗り越えていく。
でも、今の日本にはそれが見当たらないような気がする。
成人式もだいぶ変わってしまった。(ぼくは出なかったが)
成人の日の、「青年の主張」という番組もあるのかないのかわからない。(毎年見ていた)
そんな社会を作ってきたのはぼくらだから、それが悪いとすると、責められるべきはぼくらだろう。

その答えは簡単にはわからない。

でも、ぼくは何となく若いころの自分たちが「いちご白書をもう一度」で感じた思いは正しかったとしか思えないし、今の「世界に一つだけの花」は間違っているとしか思えない。

これが年をとるということか。


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