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2019.11.27 Wednesday
蘇東坡
ぼくは高校時代、漢文が好きだった。
1年から3年までやったような気がする。 教科書が3冊あるからだ。 それは未だに本棚に置いてある。 NHKでやっていた漢詩のビデオも持っている。 もうビデオは見られなくなったので、CD-ROMに焼き直しているが…。 杜甫、李白、陶淵明などの漢詩も出ていて、けっこうよかった。 今は古典や漢文は入試科目から外れるところも多くて、あまりやられていないようだ。 下位の私学では、国語イコール現代文のところが多い。 万葉集、古今和歌集、源氏物語や枕草子などの日本の古典や、論語や孟子といった中国の古典である漢文はやったほうがいいと思うのだが、社会系の科目が増えて、実質的にはやらないところも多いと思う。 たしかに、日常生活で使うことはないが、古文の知識は今の言葉を理解するのに役立つこともあるし、漢文だって、中国の事を理解するのに役立つこともある。 実際、香港に行ったとき、孔子のハナシで感心された。 蘇東坡という詩人がいる。 有名なのは春宵一刻値千金、というやつ。 春の夜は一刻が千金に値するほど素晴らしいというような意味。 でも、こないだラジオの講演会を聞いていて、蘇東坡の詩でこんな言葉が使われている、という紹介があった。 講演の内容は万葉集だったのだが、その中で紹介されている。 人生無離別 人生離別無くんば 誰知恩愛重 誰か恩愛の重さを知らん 現代のように、時間に管理された生活をしていなかった万葉の時代、人々は太陽や月を見て生活していた、というような話。 「朝」がテーマで、当時は男性が女性のところに訪ねていく「通い婚」だったから、朝の時間は別れの時間だったということだ。 その流れで、人間はずっと生きることができるなら、何も大事にしないし、「愛」などというものもなかっただろう、という話をしていた。 終りがあるからこそ、愛おしいということだ。 SNSなどで常につながっていると、こういう感覚が失われるとも言っていた。 ついこないだ、「死ぬ権利」でも同じようなことを書いた。 ああ、蘇東坡も同じようなことを言っていたのか、と思った次第。 「人生に別れというものがなければ、誰も恩や愛というものが大事だと思わない」 別れがあるからこそ、恩や愛というものが大事なのだ。 |
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