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2019.11.22 Friday
死ぬ権利
大学の同級生はぼくより年上が多い。
ぼくは現役で、友達は一浪していて、4月や5月に生まれているので、ほぼ2年違う。 その彼らが、ぼくにあと2年したらガタっとくるという。 もう足腰も弱ってきたし、体力年齢は彼らに負けているのではないかと思うが、これから本番かと思うとげんなりする。 まだ仕事もしてるし、そう弱るわけにもいかないのだが…。 9月に、イギリスで自らの命を終わらせる決意をしたという記事があった。 もちろん、イギリスでは自殺幇助罪になるので、そういう施設があるスイスに行ったのだ。 彼はイギリスでも、死の幇助を受けられるように法律を整備してほしいというメッセージを残した。 不治の病にかかっても、ポジティブに生きるべく頑張ってきたが、もうこれ以上苦しみたくないということで、それを選んだということだ。 スイスの非営利団体で最期を迎えたのだが、これには「不治の病」であることを診断する必要があり、約1万ポンド(132万円)かかる。 イギリスでは、「尊厳死」について議論されていると聞いたが、道のりはまだ遠いらしい。 理由は障害を持った人など、弱い人たちを死に追いやるプレッシャーになるのではないか、ということだ。 そういう懸念があるのは理解できる。 それでも、安楽死はスイス以外にもオランダ、ベルギー、コロンビア、ルクセンブルグで合法になっている。 また幇助自殺は、オーストリア、ベルギー、スイス、ドイツ、韓国、ルクセンブルク、オランダ、カナダ、フィンランド、そして米国の7州で合法とのこと。 お隣の韓国でも合法化されているとは、知らなかった。 ただ、合法化した国や州でも、まだまだ議論はあるとのことだ。 いずれの場合も、不治の病で、余命半年以下でないといけないという。 欧米の国では、日本のように「胃ろう」をして生きるのは虐待だと思われると聞いた。 自分で食べることができなくなったら、それはもう死ぬ時期だ、という国民のコンセンサスもある。 日本のように、管を突っ込んで無理やり生きさせるということはしない。 「生きる」という事の定義が違うのだろう。 今の日本では、とにかく生きていることに価値があるとされている。 そんなはずはないと思う。 管を突っ込んだり、自分で食べることができなくなったりしても、生きていることに価値があるのだろうか。 人間はある時期が来たら死ぬからこそ、何かを大事にできるのだ、という。 死は忌むべき物ではなく、当然迎えるべきものなのだろう。 何度も引用した池田晶子の文章。 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか! 日本でも尊厳死を議論してほしいと切に思う。 |
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