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2007.06.17 Sunday
英語は合理的?
子どもが英語は合理的で、日本語は合理的でないという。
その理由は、日本語では「自分」をあらわす言葉が、「私」「ぼく」「おれ」など、いくつもあること、語順に英語ほど規則性がないことなどをあげていた。 たしかに、人称代名詞については、和洋の違いは明らかだ。 西洋の「I」や「You」という言葉はずっと変化していないらしいが、日本語では、「御前」「貴方」など場所をあらわす言葉が人をあらわす言葉になったり、「君」のように昔は高い地位をあらわす言葉がだんだんと普通の人をあらわす言葉になったりしている。 これは、だれかが言っていたが、西洋では神と人の関係が1対1なので、「神」に対する「私」はずっと変わらないのに対して、日本では「神」対「人」という概念はなく、「人」対「人」という和の中で「自分」や「他人」を区別するので、日本語の人称代名詞はたくさんあるのだ、ということらしい。すごく納得したので、よく覚えている。(そのわりに、誰が言ったかは覚えてない…) 語順に関しても、日本語や韓国語は膠着語という分類であり、「膠着」というのは、「ニカワでひっつける」という意味で、要は助詞などを使って、どんどん言葉をひっつけていく、という形式の言語だと聞いた。 それは、その通りで、「ぼくは買い物に行った」と言ってもいいし、「買い物にぼくは行った」と言ってもよい。 英語で言えば、"I went shopping."としか言えないと思う。 肯定、否定もあとでひっつける事ができるので、「ぼくは…と思う」というのを否定するのは「ぼくは…と思わない」で、肯定か否定かは文末まで保留される。 英語で言うと、肯定・否定は"I think…"か、"I do not think…"であらわす場合が多く、最初に宣言される。(もちろん、…の部分を肯定文にしたり否定文にしたりすることで、ひっくり返すことも可能だが) そんな事があって、日本語は合理的でないという。 しかし、日本語は漢字、カタカナ、ひらかなという文字を使って、古くはアジアの言葉を、新しくは西洋の種々の概念を日本語の中に取り込む柔軟性を持っており、それが日本の文化を豊かにしている。 だから、合理的でないとは言えないのではないか?と言ってみたが、「柔軟性があることと、合理的であることは別のことだ」と言い返され、「それもそうやな」という事になってしまった。 実はぼくも若いころは、日本語は英語に比べて合理的でない、と思っていた。 でも、年をとるにつれ、必ずしもそうではない、と思うようになった。 それは日本人として、年を重ねるうちに、日本語が合理的でないと思いたくなくなったからなのか…。(これも日本語的な表現だ) 素直に同意できない気持ちになってしまう。 結局は説得することはできなかった。 内心そう思っていることは、やっぱり説得できない。 しかし、それだからといって、日本語が劣っていることはないという事だけは伝わったと思うのだが…。 |
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