考えたこと2

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街場の大学論2
内田樹著 角川文庫

もう一回、街場の大学論から。
第4章の「大学が潰れてしまう」というところに、「入学定員を減らすしかない」ということが書いてある。

これは18歳人口の減少にしたがって、毎年志願者が確実に減少していく、という実情に対して、内田先生の対抗策が書かれている。

 全国の大学が人口減の比率に歩調を合わせてスライド式に学生定員を減らしていけば、大学数は変わらず、一大学当たりの学生数だけが減る。この選択肢が大学の社会的使命を考えると、日本の大学に残されたオプションの中ではベストのものだと私は思う。
 一大学あたりの学生数が減ると、とりあえず学生一人当たりの教室面積も、一人当たりの図書冊数も、一人当たりのコンピューター台数も全て増える。これで教育環境は改善される。
(中略)
 学生数は減らしてもよいが、大学の数はあまり減らさない方がいい。私はそういうふうに考える。となると、方法は一つしかない。そう、大学のダウンサイジングである。それこそ大学が生き残るための合理的な唯一の選択肢である。私はそう思っている。
(中略)
 つまりあと十八年で、いまの学生数の半分程度まで減らすというのが「理想」なのである。単に財政上の理由から、このまま六百五十人をとり続けるということは、具体的には、教育達成目標をどんどんと下方修正して、本来なら高等教育を受けるだけの知的資質を欠いた学生たちを受け容れてゆく、ということを意味している。
 それは大学の社会的使命を忘れて、最後には市場の淘汰圧に押し流されて、百二十五年の歴史の晩節を汚す様な行き方だと私は思う。
 むしろ、粛々とダウンサイジングを敢行して、「小さいけれど、クオリティの高い教育を続けている学校」という本来の女学院の教育機関としての「反時代的」ポジションを守り抜くことを私は提案しているのである。
 学生定員を段階的に減員してゆき、数年以内に、入学者数を五百十七という定員にまで引き下げる。それでも十八歳人口の減少には追いつかない。
 だから、どこの大学もいずれは定員そのものの減員が必要になる。だが、まだ定員そのものを一気に減員するという改革に踏み切っている大学は(短大を除くと)ほとんど存在しない。
 定員が減れば、当たり前だけれど、本学に入るのは難しくなる。難しくなれば、モチベーションの高い学生しか来なくなる。モチベーションの高い学生が相手なら、教育してクオリティを上げるのは簡単である。クオリティの高い卒業生を輩出すれば、大学の教育機関としての声望は高まる。
 簡単なロジックだ。
 問題は学生納付金が減るということである。インフラの整備や、教育サービスや研究のレベルは落とせない。削れるのは人件費だけである。人件費を学生納付金の減少に応じて削ってゆく他ないだろう。給与のカットも必要だろうし、人員も減らすしかないだろう。
 それは仕方がない。教職員に給料を払うために大学はあるんじゃないからだ。
 大学は学生を教育するためにある。学生の学ぶ機会をどのように確保するか、ということを何よりも優先的に考えるべきだろう。手弁当でもこの大学で優秀な学生を相手に、本気の教育をしたいという人間だけが残ればいい。
 百二十五年前に最初に神戸に来た二人のミッショナリーが「何をしようとして」この学校を作ったのか、その原点に立ち返って考える時期だと私は思う。

この内田先生の案は正解だとぼくも思う。

何のために大学が「学校法人」という非営利団体になっているのか、それを考えればわかるはず。

教えたいことがあるから、学校を開いたのではないのか。
それを達成するためには、どうしたらいいか、考えてみればいいと思う。

しかし、残念ながら内田先生のおっしゃるとおり、提案を実行した学校はない。



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