考えたこと2

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夢がなくなる
今日過去の記事を検索していて、2005年の7月29日にこんなことを書いてあるのを読んだ。

「年をとる、ということは「夢のリスト」から一つずつ夢を消していく行為、という部分がある。中にはリストの上位に書いてある夢を叶えられる人もいるが、大勢の人はそんなことはできない。「マンガ家になりたい」とか、「ミュージシャンになりたい」とかいう夢は早々に脱落していく。そういった「夢のリスト」に書き込むものがあれば、まだいい方で、昨今は夢そのものが無くなってきているように思える。」

2005年といえば、今から11年前。
漫画家やミュージシャンはぼくの昔の夢だった。
書いたのは40代の終わりだったが、その時にももう夢はなかったのかと改めて思った次第。
この記事は「ケータイ・ネット人間」の精神分析という本のことを書いていた。
そういえば、そんな本を読んだ。
小此木啓吾という精神科医が書いた本だった。

その本を読んで11年(実際に書かれたのは2000年)、世の中の大多数が「ケータイ・ネット人間」になった(実際にはスマホだが)。
小学生がスマホを持ち、タブレットを操作し、オトナが電車の中でゲームをし、常時接続の高速回線が普及し、コンピューターを持つということはインターネットを利用する、ということになった時代。
そういうぼくも、ネット人間だなあ。

この本は「インターネット、ビデオ、ゲームなどに引きこもり、その中で自我意識が肥大化し、事件を起こす少年たち」への問題意識で書いた本だ。

人間は生まれて育った環境を超えては存在できない。
自分が親や社会から受けた教育は、二度と同じことができない。
そこを基準に判断するしかないのだと思う。
小此木啓吾が自分の生まれて育った環境をベースに、78年に「モラトリアム人間」の時代を書き(これはぼくらのことだろう)、亡くなる前に「ケータイ・ネット人間」の時代を書いた。

小此木には彼なりの危機感もあって、亡くなる前にこの本を書いた。
詳しくは本を読んでほしいが、中にこういうことが書いてある。

「 この世の風潮の中で、消費するお金はどこから手に入れようと、どんなお金であろうと消費する力になればよい、という気分が若者たちにただよっている。そのお金をどんなふうに稼ぐかは、ますます二次的なものになった。かつては、どんなふうにお金を稼ぐかが、その人の人間としての価値を左右し、その人のアイデンティティを決めていた。ところが若者たちの間に、いまや、どんなふうにお金を稼ごうが、その稼ぎ方はきびしく問われない風潮が広がっている。これまである種のブレーキをかけていた、これまでのタブーを乗り越えて、これまでタブーだったお金の稼ぎ方が、どんどん商品化される。」

これを2000年に書いたというのは、まさに予言だったと思う。
今や小学生のなりたい職業にYoutuberが出てくる。
まさに、本で警鐘を鳴らしていたことが本当になった。

「かつてはどんなふうにお金を稼ぐかが、その人の人間としての価値を左右し、その人のアイデンティティを決めていた」とぼくも思う。

お金を稼ぐのに、どうでもいいことをやって稼いでも、それは認められない、という価値観はどんどん崩れてきたのは事実。
インターネットの仕組みの中で、そういう稼ぎ方が市民権を持ってきた。

島田紳助の始めたおバカタレントあたりからのような気はするが、おバカはそれなりに努力することで、認められてきたのかもしれない。
昔なら、そういう人はマスコミに登場しなかったのだが、そのタブーは崩れた。
儲かるなら、そういうのもアリになった。

そして今やYoutuberだ。

若い世代が悪いわけではない。
大人がそう誘導してきたのだ。
これはもう戻らない。

果たしてこれは資本主義の正常な進化なのだろうか…。

何かもう一度パラダイムシフトが起こらないといけないような気がする。

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