考えたこと2

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変わる言葉
言葉は変わっていくというのは、英語の世界でも同じだ。
英語のツイッターのページで、フォローすべき人、というのが推薦されるが、それが「Who to follow」と書いてあるとのこと。
Wall Street Journalの記事にあった。

whomという言葉、用法は「先行詞が人の場合の関係代名詞の目的格」と書いてある。
つまり、「Who to follow」というのは、文法的には「Whom to follow」と書くのが正しい。
ぼくらもそう習った。
この記事でもそう指摘している。

記事によると、英語ネイティブからみるとwhomは「堅苦しい」感じがするらしい。
そこにwhoを使うと、くだけた感じ、フレンドリーな感じになるという。
英語でもどんどんリズムを重視するような傾向にあるらしく、語呂も関係する。
「Who to follow」の方が「Whom to follow」よりも言いやすい。
まあ、その感じはわかる。

日本語でも「そういうこと」というのを「そうゆーこと」というような表記をしていることがある。
個人的には、これはちょっとなあ、と思うが、違和感がない世代もあるんだろう。
「かっこいい」を「かっけー」と書いたり、「おまえら」を「おめーら」と書いたりするのも、最近見る。
どんどん話しやすいように変化していくのだろう。

実際、古い時代からいうと、そういう変化を遂げてきたのだ。

そのうち、音を伸ばす「−」が多用されて、上の文章は、

「じっせー、ふりーじでーからゆーと、そーゆうへんかをとげてきたのだ」と読む日が来るかもしれない。
その時代の人たちにとっては、普通のことであり、古語辞典に昔はこう読んだという解説が出る。

昔の時代を生きた人からすれば、今の言葉がそうなっている。

何ともいえんなー。


| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の英語教育
2020年から小学校で本格的に英語をやる、ということが決まっている。
でも、小学校の先生は英語の教育についてほとんどは素人。
ALT(外国語指導助手)がつくことになっているが、年を取った先生はシンドイだろう。

教科書はどんなものになるんだろうか。
中学校との連携はどうなるんだろうか。

ぼくが一番不思議なのは、小学校の教員養成課程がそれに先立って変わらないことだ。
文科省の資料を見ると以下のようなことが書いてある。

外部専門機関と連携した英語担当教員の指導力向上
 ・地域「英語教育推進リーダー」養成・悉皆研修
 ・受講した教員・児童生徒のアンケート・検証・改善
 ・県の「英語教育改善プラン」策定・公表(H28年度〜)
  (教員の英語力・指導力の目標設定・公表・検証・改善を含む)
教員養成の抜本改善
 ・コアカリキュラム開発・検証 ・今後の養成課程制度の改善
  小学校英語教科化に対応した中学英語免許状取得支援(H28年度新規要求)
 ・小学校各校一人の中核教員の専門性向上
教員の採用改善
 ・英語力の条件の見直しを県へ要請、取組把握・公表・改善
外部人材の活用(ALT等)
 ・JETプログラム、専門性の高い非常勤講師、地域人材活用

指導力を向上させるために研修するとか、リーダーを育成するとか書いてあるが、肝心の教員養成の抜本改善はまだまだこれからだ。
この文科省の体質はどうにかならないんだろうか。
まず、先生を変えて、そのうえで教育を変える。
それでゆとり教育も失敗した。
このままなら、今回の英語教育も失敗する。

教育に携わったことがある人なら、「先生」の重要性はよく知っているはず。
学校の価値は「先生」の価値とほぼ等価だと思う。
いい先生に習えば、いい生徒が育つのは誰しも思っていることだろう。

小学校の何年の時のあの先生がよかったとか、中学であの先生に出会ったのが転機だったとか、高校のあの先生に会わなかったらとか、大学の研究室のあの先生の一言がとか…、そういうことだ。
誰しも、記憶の中に「恩師」とまではいかなくても、「あの先生」の言葉を覚えていたりするはず。
そういう先生を増やさないといけないのだ。

ましてや今回は今までやっていなかった科目を教えるのだ。
入口の大事さは教育学者でなくてもわかるだろう。
中1で英語を嫌いになる、というショックを和らげるために小学校に英語を導入する。
その対策が、中1の英語の課程を勉強することとは…。
今の英語教育と同じことをやろうとしているんだろうか。
小学校で習うべき英語とはどういうものがいいのか、その答えは考えてないんだろうか。

何かを新しく教える時は、先にその「何か」を教えられる人を養成する、という当たり前のことだ。
今から採用試験の「英語力の条件の見直し」などやっていて間に合うのか。
先生を変えていかないと、アクティブ・ラーニングなど掛け声倒れで終わり、なにをやっているのかわからなくなるに違いない。

せめて民間資格の英検やTOEICの最低限度を決めて運用するなど、文科省が主導でやるべきだと思う。

そして、それが教員の質を上げ、全体を底上げできればと願う。


| | 考えたこと | 13:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターケース
こないだ大阪に行った帰り、8時前の帰りの電車で2人、ギターケースを持っている人を見た。
一人はソフトケースでガットギターが入っているようなタイプ。
もう一人はフォークギターのハードケース。
どちらもぼくより年上と思われる男性。

今から演奏に行くのか、それとも帰りなのかはわからない。
どちらもあまり年季の入っていないケースだった。

最近ヤマハがネットの宣伝で、「昔やろうと思っていたギターをもう一度」というようなのがある。
それをよく見るせいか、この人たちは「もう一度」のクチか、それとも…と思ってしまった。

ぼくが中学の頃はフォークソングのブームだった。
中学校から帰るとき、すれ違う大学生の中にギターケースを見ない日はなかった。
それほどのブームだった。
よく、あのケースの中には何も入っていないとか、食器のフォークが入っているのではないか、とか言ったものだ。

今日電車で見た2人は、ぼくよりちょっと年上。
ちょうど中学の頃、すれ違った大学生の年代だ。
ずっとギターを弾いてきたのか、それとも「もう一度」のクチか…。

いったいどんな曲をやるんだろうか。
当時の曲だろうか、それとも今の曲だろうか。
アメリカのフォークだろうか、それとも日本のフォークだろうか。

「もう一度」のニーズはたしかにあるんだろう。
あるからこそ、ヤマハが宣伝している。
「はじめよう、ギター女子」というのもあった。

この調子でヤマハがプロモーションすると、またギターが流行るかもしれない。

そんなことはないか…。


| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |