考えたこと2

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何のために働くのか
何のために働くのか 寺島実郎著 文春文庫

「何のために働くのか」という題名の本は多い。
検索してみると、10冊はそのままの題名の本がある。
「なぜ働くのか」とか、「日本人は何のために働くのか」という類書も入れると300冊くらいはアマゾンでヒットする。
書いている人も、実業家、哲学者、心理学者などバラエティに富んでいる。
浅薄な本も多いと思うが、ぼくは実業家の人が書いた本が好きだ。
自分がサラリーマンだったというのもあるが、大学で勤めてみて、ほとんどの学者は基本的にサラリーマンのような就労観を持っていないとわかった。
それは学者だから仕方がないことだ。
だから、読んでいても何となくピンと来ない。自分の体験から、書いてはいないからだ。

この本は寺島実郎という、三井物産出身の人が書いた本。
1947年生まれだから、67歳。
現在は日本総合研究所理事長、多摩大学学長、三井物産戦略研究所会長を務めている。

ぼくは、この人の講演を聞いて、スゴイ人だと思った。
「時代を見る目」を持っていて、世界の動きを肌で感じている人だと思う。

カバーの裏の本の紹介文には「サービス業の増加、分業化・効率化、グローバル化、IT革命の果てに、私たちは「自分の納得のいく仕事」を見つけにくい時代に生きている。では、どうすれば生き生きと働くことができるのか?世界を舞台にビジネスの最前線で活躍してきた論客が渾身の力で、その問に答える」と書かれている。

「はじめに」の部分に美輪明宏の「ヨイトマケの唄」のことが触れられ、こう書かれている。

過去5年をさかのぼれば、常勤の仕事に就けなかった大学院卒業生は二十万人を超す。これは衝撃的な事実ではないだろうか。
「ものづくり日本」の落日とその行く末に、多くの日本人が不安を抱いている。「母ちゃん、エンジニアになったぞ」と自慢できた「ヨイトマケの唄」から半世紀。がんばって地道に努力すれば、自他ともに認める職業に就くことができ、一歩一歩成功への階段を上がっていける…。そんな単純な時代は終わってしまった。働くことをめぐるパラダイムが大きく変わったことに、改めて驚かされる。
「ヨイトマケの唄」を入り口に考えを巡らすと、素直に心をうつメッセージと「時代が違うよ」とつぶやきたくなる違和感が交錯するのである。

ちょうど寺島はぼくより10歳上だから、世代は違うが、ぼくも同じことを思う。
今の時代、どう頑張ったらいいのか、それがわからない。
そして、この本を書くに至った動機が語られる。

就職や転職は、仕事や人生について、さらには自分が生きている世界について、深く考える好機である。その期に自分自身や仕事に真剣に向き合ってほしい。そんな思いから、若い人たちに向けてこの書を書くことを思い立った。
なぜ働かねばならないのか、働くことの意味とは何か。
若い世代の多くが、その答えを探して、悩み、もがいているにちがいない。
就職難の時代といわれ、血眼になって学生たちが「就活」に励む一方、就職が決まって社会参加しても入社三年で三割が転職するという現状は、悩みの深さの表れであろう。また若者と経済社会のミスマッチが生じていることの投影ともいえよう。

ぼくも同じことを思う。
でも、若い人たちは「なぜ働くのか」というような本は読まないのだが…。
そして、こう続く。

こんな時代に、自分なりに納得できる、手応えのある仕事に就くのは不可能なのだろうか。
それでも私は希望を失ってはならないと思う。
理性と知性、論理的思考を取り戻して、やりたいと思うこと、打ち込むに値する仕事を見つけて、それをやり通す。そして仕事を通じて自らの職能を高め、社会に貢献していく。若い人たちにもそんな働き方をしてほしいし、その可能性はある。

少しハイブローな感はあるが、そうあってほしいと思う。
ぼくが大学生に、働く意味について話をするときには、賽の河原の石積みの話をする。
石の山を右から左に移す。移したら、また今度は左から右に移す。これを意味もなく繰り返すという仕事があったとしよう。ただし、月給は50万円だ。さて、あなたはどうするか?
みんな、とりあえずやる、と答える。
でもそれを続けることができるか?毎日毎日、石を移すだけの仕事だ。
ぼくは、ある程度お金が貯まったら、やめるのではないか?と聞くと、学生たちはやめると答えた。
そして、なぜ働くのか、という問いには、生活があるからとか、お金を稼ぎたいとか、そういうことを超えたところで答えないといけない、と話した。
そう、誰か他の人のために働く、ということだ。
だれか他の人のために働くから、お金がもらえる。自分の成長のためではない…
そんな話をした。

それを寺島は「カセギ」と「ツトメ」という言葉で表している。
「カセギ」は経済的自立で、「ツトメ」は社会参画や社会貢献を指す、と説明される。
第一章、「働く意味を問う」ではこう書かれている。

どんな社会でも、経済的自立を果たしていない人間を大人とは認めない。「年齢が二十歳になれば大人になる」という単純な話ではなく、自分の意志で経済的に自立することは大人になるための要件のひとつである。
ただし、経済的自立だけでは十分ではない。「おつとめ」という言葉があるように、社会に参画して、世の中に何がしかの貢献をすることも必要である。つまり、原始共産社会から現代社会に至るまで、「カセギ」と「ツトメ」の両輪を確保してはじめて「大人になった」と社会的には認知されるのだ。
望ましくは、この「カセギ」と「ツトメ」をひとつの仕事に就くことで同時に獲得できれば、それに優るものはない。経済的な自立はもちろん、仕事を通じて能力を高め、余人をもって代えがたいと認められる存在になる。新しいものを創造し、組織や社会に貢献する。そういう仕事を持つ人は幸福な人生を送っているといえるだろう。

これに異論はない。
まさにその通り、といえると思う。
何度か書いたが、ぼくは「世界に一つだけの花」の世界観が嫌いだ。
寺島も同じことを言っていて、思いを強くした。
この歌は「罪作りな歌」だと言われる。

その子育てのBGMに流れる歌は「世界にひとつだけの花」である。「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なOnly one」という歌詞のとおり、「人と比べる必要はない」「君は価値のある、世界に一つだけの花なんだ」と両親、祖父母に励まされる。さらに高校や大学では「個性を伸ばす教育」の名のもとに、「一人ひとりが光を放てばいいんだ」などとさんざんおだてられ、自分を客観視できないまま大学を卒業するのである。
ところが社会人になった途端、まったくちがう環境に出くわす。「おまえの個性なんかどうでもいい。おまえのやるべきことは、目の前の仕事をこなすこと、つまりこのバーコードをなぞることだ」「SEとして、とにかく黙ってプログラムを組めばいいんだ」と命じられ、「大人しい部品となること」を求められてしまう。「自分だけの花」を咲かせるなんて、そんな御託は並べるな、個性を高らかに謳いたいならカラオケでも歌ってろ、と。「個性を押し殺して生きることが社会人になることだ」と言われているようなものであり、いままで吹きこまれてきたことと比べると、あまりにも異なるギャップがある。「俺って何?」「私って何だったの?」と悩みはじめ、”世界に一つだけの花”はあっという間にしぼんでしまう。そして新たな自分探しを求めて、三割の人が三年以内に転職・退職してしまうのである。

そうそう、その通りである。
そういう若者たちはどうしたらいいのか。

頼るあてのないバラバラの星雲状態に置かれた労働者・勤労者が、結局拠って立つところは、自らの自覚で「カセギ」と「ツトメ」を探求していく個としての覚悟にならざるをえないのだ。その中から力を合わせるべき仲間、連帯すべき存在に気付き、ネットワークを結集し、自分の人生を創造していかねばならないのだと思う。

寺島は多摩大学学長としての立場もあり、昨今の学生の姿も知ったのだろう。
調べてみると多摩大学は偏差値40〜45だ。
定員割れはギリギリしていないようだが、苦しい大学には違いない。

そして、今の就活について、こう書く。

就職は人生において非常に重要な選択である。エントリーシートを何百枚も書く時間とエネルギーがあるなら、「仕事というもの」にもっと柔軟に向き合うべきではないか。
若者には、もっと経済の現場を知ってほしいし、ビジネスの最前線で活躍し、苦しみながら何かを生み出してきた先人たちの話に耳を傾けてほしい。
大企業に就職するだけが人生ではない。規模は小さいが将来性のあるビジネスを手がける優良企業もたくさんある。また、出来上がった組織で勤め人として働くだけではなく、自ら起業したり、自分の腕一本で職人になるという選択もある。

そして、重要なことが書かれている。

重要なのは「カセギ」と「ツトメ」が一体となった納得できる仕事に幸運にもめぐり合うことではなく、長い時間をかけて、経済的自立を確保し、かつ世の中の貢献にもなる人生の形を粘り強く創りあげていくことなのである。人間は食べるためだけに生きているわけではない。「カセギ(メシのタネ)」の確保だけが目的で働くのなら、極端な話、サルと大差ないからだ。
ところで、最近、深く考えさせられる事実を知った。今やヒトゲノムの解析は終わり、実際に人間とチンパンジーのDNAは98.8%同じであることがわかったというのだ。人間とチンパンジーは約七百万年前に分化したという。わずか1.2%のDNAの差が人間を人間たらしめている。では、サルと人間のちがいとはいったい何なのだろうか。
人間がサルよりもあらゆる面で優れているわけではない。運動能力は明らかにサルの方が高い。また、瞬間的に画像を認識し、記憶する能力は、サルの方が人間よりも優れていることが確かめられている。森にサルと人間を単独で放したら、おそらくサルの方が長く生き延びるだろう。しかし、森を出て、文明を築き、現在の地球で繁栄を謳歌しているのは人間だ。この差は何から生まれたのか。
まだ十分には解明されていないのだが、人間がサルよりも優れている能力、つまりDNAの1.2%分の差とは、言語表現能力やコミュニケーション能力だという。それは人間に「理性」の力を与えた。チンパンジーから分化した後、約二十万年前に現生人類が誕生した。そして約六万年前にアフリカから人類の
「グレートジャーニー」(大陸間の移動)が始まったという。人間とは「環境適応生物」らしく、移動の過程で環境に適応して生きることを学習し、それが「進化」につながった。そして、人間は外部の環境をそのまま甘受するだけでなく、それを変えていくことができるようになった。「理性」はやがて自然だけでなく、人間が作り出した社会のあり様も大きく変えていった。
(中略)
果たして我々は、本当に将来のために種を蒔く「賢いサル」だといえるのか。人様が植えてくれた実に食らいついて腹を満たし、その日その日をなんとか生き延びる−そんな自分勝手な考えで日々を送るのなら、「物知らずのサル」と同じではないか。そう自問自答せざるを得ない。
「カセギ」だけを目的に働いていては、我々はいつまでも「賢いサル」にはなれないであろう。「ツトメ」を果たし、社会を少しでもよりよいものに変えていこうと努力することではじめて、我々は「賢いサル」になれる。そんな結論が見えてくる。
本書の冒頭で引用した「ヨイトマケの唄」のように、「子どものためならエ〜ンヤコラ」と綱を引っ張った人たちの思いを受け継ぎ、私たちは生かされている。その重みを受けとめ、新しい時代や社会に対して応分の役目を果たさなければ、人間はサルよりも賢いとはいえないのだ。

そして、「働く意味を問う」という章の最後にはこう書かれている。

「どう働くか」は「どう生きるか」に直結している。就職や転職が「自分で生きる意味」について思いを馳せる絶好の機会になるのは、そのためだ。
ただし、「生きる意味」について考えるといっても、「自分探し」とはまったくちがう。その点は誤解しないでほしい。
「自分はこれをするために生まれてきたんだ」と思えるもの、大仰にいえば「天命」や「天職」のようなものは、外を探し回って見つけるものではない。これだけは、はっきりいっておきたい。
やりたい仕事が見つからず、あせりを感じている人もいるだろう。採用してくれた会社にとりあえず入ったものの、「ここには自分を活かせる仕事はない」と落胆している人もいるだろう。だが、「いつか青い鳥が見つかるはずだ」と戯言を言いながらフラフラとさまよっても、求めるものは得られない。
目の前にある仕事、取り組むことを余儀なくされたテーマに挑戦し、激しく格闘しているうちに「自分というもの」がわかってくる。自分らしい仕事を探すのではない。仕事を通じて自分の可能性を懸命に探求していけば、おのずと「これをやるために生まれてきたんだ」と思える仕事に出会えるだろう。

これが結論だと思う。
目の前の仕事、今の仕事を大事にすることでしか、天職は見つからないと思う。
この後、自分の人生を振り返って、という章や、時代認識への示唆、企業の選び方といった章が続く。
でも、最初の2章で結論は書かれている。

なかなかいい本だ。


| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
CSI:NY
CSIというとアメリカの鑑識のこと。
Crime Scene Investigationの頭文字だ。
アメリカの人気ドラマシリーズ。

最初はラスベガスで始まった。
そして、マイアミ、ニューヨークというスピンオフができた。
合計3シリーズ。

ラスベガスは一番最初のシリーズだけあって、科学的な捜査というのに重点を置いた番組作り。
主人公の主任が3人目だ。

マイアミはもっとハードボイルドな作り。
ホレイショという刑事のキャラクターが特徴的。
マイアミは場所的にも南米のギャングたちが出てきて、一番きついところ。
悪には敢然と立ち向かう、手段は問わないという感じのホレイショは魅力的だった。
もうこのシリーズは終了した。

そして、ニューヨーク。
マック・テイラーという海兵隊出身の刑事が主人公。
一番刑事らしい刑事。
今回、ファイナルを迎えた。
ぼくはニューヨークが一番好きだった。
マックがカッコ良かったからだ。
ラスベガスのように科学的過ぎず、マイアミのようにワイルド過ぎず、正義感を押し出してはいるが、理知的なテイラー刑事が一番このドラマにぴったりくる。
ファイナル・シーズンの最終回で、マックが恋人に結婚を申し込むところがラストシーン。
終わるのは残念だが、いつかは終わらないといけない。
いい最後だったと思う。

本家CSIが最後まで残っている。
だんだんと視聴率が落ちてきただろう。
でも、視聴者に犯罪捜査の科学的な側面を教えるいいドラマだ。

このドラマをやりだして、アメリカの刑事裁判で陪審員が捜査方法について言及することが増えたとのこと。

いいことだと思う。



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