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2009.06.21 Sunday
桜桃忌 その2
去年、たしか太宰治のイベントを桜桃忌の日に書いた…と思っていたら、今年が太宰生誕100年でたくさんの人が訪れたとのこと。
おかしいなあ…と思って見直してみると、去年は60回忌だった。 死後60年ということになる。死んだのが39歳だったから、今年は生誕100年か。 芥川賞がとれず、審査員の一人にボロクソに書いた手紙があるかと思えば、翌年懇願する手紙を書いたりする。 借金の手紙もたくさん書いている。 青森の生家がが紹介されていたが、たいへん大きな家。何でも当時青森で3位の地主だった…とのこと。 でも、その親に勘当され、見返してやろうと思っていた。 来ている人にインタビューしていたが、太宰の魅力はそのプライドと、うらはらななさけないところにある、という。 また、今読んでも古くないとか、言葉が新鮮だとか…。 あっけらかん、と語っている。 たしかに、言葉は印象に残るものがある。 当時コピーライターという職業があれば、その道で食べていけたかもしれない。 でも、インタビューを受けていた、大学院で太宰治を研究している女性を見ていると、何か違うなあと思う。 太宰が死んでから生まれたぼくですら違和感を感じるのだ。 その時代はまだ日本が貧しかった。でも、戦争から立ち上がろうとするパワーがあったと思う。 その中で、あの退廃的な部分を持って、心中を2回もしたりする…、そんな人生であの小説を書いた。 もちろん私小説もあるが、本当の小説もある。 私小説はなさけない部分であり、本当の小説、特に短編はプライドというか、天才の部分だと思う。 でも、太宰治はそんなにあっけらかんと語られる作家ではないのだ。 もちろん、読者の数だけ読み方はある。 作品は作者を越えて一人歩きするものだ。 だから、大学院生がそう思うのはかまわない。 当時のぼくは、太宰治を語るときに、なぜか屈折した気持ちを味わったものだ。 そんな、息が詰まるような気持ちを伴わないと語れない。 そういう作家だと思う。 でも、太宰治が見直されるのはいいことだと思う。 |
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