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公認心理師 その2
以前、公認心理師について書いた。
その時に、心理学系の学会数が多く、たくさんの民間資格が存在するということが現状で、それを何とかしようとできた国家資格が公認心理師と説明した。

今回「この国で「自称心理カウンセラー」が乱立する現状はようやく変わるか」という記事を読んだ。
これを書いた人は筑波大学の教授。

公認心理師の活動フィールドは、教育、福祉、司法、産業、保険医療の5つあり、この人は司法領域で活動している現役の人。
司法というとどんなところかと思うが、「刑務所や少年鑑別書での心理検査や再販防止の治療的な処遇」などをやってきたということだ。
もちろん、臨床心理士資格も取得している。
現状について、この人が書いている。

「この状況は本当に憂慮すべきものである。以前、「似非カウンセラーの問題」を取り上げたが、カウンセリングと称して、不当に個人情報を取得したり、果てはわいせつ行為に及んだりする者すらいる(女子中学生を「買春」子どもを食い物にするカウンセラーが増殖中)。
わずか1日やそこらの講習を受けて、「心理カウンセラー」を名乗り、あたかも専門家のような顔をして「カウンセリング」を行っている者のなんと多いことか。」

問題があることは想像していたが、こんなにひどいとは思わなかった。

「ちょっとネットを検索しただけでも、多くのいい加減な「講座」がぞろぞろと出てくるし、わけのわからない「カウンセリング・ルーム」「心理相談室」などもたくさんある。
悩みを抱えていたり、あるいは心理的な問題や障害をもっていたりする人たちに対して、素人のような人々が「カウンセリング」をした場合、良くなるどころか、むしろ悪くなってしまうことを示すエビデンスはいくらでもある。しかも、安くはない料金を取るのである。
現状では、このようなことが野放しになっているわけだから、今回のような国家資格ができるのは、とても意義のあることである。むしろ遅かったくらいだ。」

なぜ、国家資格が遅れたかということも書かれている。
医療分野で「医師の指示を受けない専門職」というのがネックだったとのこと。
臨床心理士が心理臨床学会メインの文科省寄りの資格であるのに対して、厚労省が医療領域の臨床検査業務をやる心理士を作りたかったが、医療領域は医師会の力が強く、「医師の指示を受けない」というところが譲れなかったということだ。

チーム医療にはリーダーが必要であり、医療領域では医師がそのリーダーにならざるを得ないと思う。
それが当たり前のチームワークであり、そこに医師から独立して指示を受けないメンバーが入ることは、ダメというのが当然だろう。
ぼくは、「独立した専門性」にこだわる方が、間違いだと思う。

この記事で著者が問題にしているのが、公認心理師になるための受験資格だ。
実際に心理の仕事をしている人は、受験資格があることになっているのだが、その受験資格認定でいろいろともめたらしい。

伊藤絵美という、我が国の認知行動療法の第一人者が受験資格を得られず、大変だったということらしい。
調べてみると、数多くの本を出しており、公認心理師のガイドブックなども執筆しているのに、「受験資格なし」になった。
何万人も応募者がいるのを審査するのは大変だとはいえ、杜撰だったということだ。
伊藤絵美さんは厚労省と交渉して、試験の3日前に受験票が送られてきたとのこと。
しかし、同様の理由で却下された人がたくさんいて、説明もなく受験できなかったということが書いてある。
それほどまでに、心に関わっている人は多く、玉石混交ということだ。

この記事の最後のところで、「一番の問題」とされているのは、公認心理師の「大学のカリキュラム」。
心理業界には古い人たちが多く(だいたい学問の世界はそうであるが)、「エビデンスのない技法や理論がずらりとならんでいる」ということだ。
アメリカの大学では今や「心理学史」の中にしか登場しない、フロイトやユング、アドラーなどが、カリキュラムの中に入っている、という。

これはぼくもビックリした。
古いとは思ったが、フロイトやユングはもう歴史の中の人物なのか!
まあ、時代的にはそうだが…。

最後にこう書かれている。

「エビデンスがないと言われても、長年の間、それを学び、臨床場面で活用してきた人たちは、それを手放すことに激しく抵抗する。そして、「エビデンスだけが大事じゃない」「悪口を言うな」などと感情的に「逆切れ」する。

古い人は仕方ないとしても(本当は仕方なくはないが)、今後もこのような時代遅れのカリキュラムで学んだ人たちが、公認心理師として社会に出ていくわけである。

時代遅れだけならまだよいが、治療においても、検査においても、エビデンスがないものを振りかざして、悩める現代人の「こころ」の問題に対処できるのだろうか。それは自己満足以外の何物でもない。

実際、今回の試験問題にも、カビの生えたような理論や技法の問題が数多く出題されていた。私などは、これらの問題に不正解であった者こそを合格とすべきではないかと思ったくらいである。

このような問題点を改めるためにも、広く公認心理師の存在と仕事を世の中の方々に認知していただき、監視していただきたいと切に願う。」

同様のことは、精神科医の和田秀樹も書いていた。

ぼくも大学で勤めているとき、臨床心理をやっている人はなんでこんなにセクト主義なのかと思ったことがある。
自分たちの仲間で固まっていないとイケナイ、という考え方なのだ。
学問分野として必要な人を採らないといけないのに、結局は仲間優先になってしまう。
だから、先生がたくさんいてもカリキュラムが組めない。
大事な科目が非常勤になったりする。

たしかに、この状態は何とかしないといけないと思う。



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